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ホットミルクファントム
朝寝坊した。
正確には家を出る時間の十五分前に目が覚めた。
急げばまだ間に合う時間だ。
僕は朝ごはんをしっかり食べるタイプなのだが、今日は食べずに我慢するしかなかった。
まだ目覚めていないフラフラした頭で、なんとか無事に下の子を保育園に送り届け、その後は仕事まで少しだけ時間がある。
久々に、駅前のパン屋に行ってみることにした。
パン屋は楽しい。
トレーとトングを手に取り、カチカチやりたい気持ちをグッと堪え、忙しい朝のパン屋で静かにパンを選ぶ。
しょっぱいパン二つ、甘いパン一つがマイルール。
今日はなんとなくハッシュドポテトも買ってみよう。
空腹だとつい買いすぎてしまう。
持ち帰りだし、余ったら昼にでも食べよう。
パンを選び終えレジに向かうと、ちょうど一人のおじさんがレジ前に来て、注文を始めた。
おじさんは、パンを持っていなかった。
「えーっと...ホットミルクでいいです。」
ホットミルク...?
予想外の注文に思わず聞き耳をたてる。
店員のおばさんも予想外だったようで、虚をつかれたような表情をしていた。
よく、ハトが豆鉄砲を食ったようと言うが、まさにその様子であった。
この場合、ハトが店員さんで、豆鉄砲はホットミルクだ。
まさかおじさんがホットミルクを頼むとは思わない店員さんは、何度も注文を聞き返す。
「ミルクカフェオレでよろしいですか?」
「いや、ミルクで。」
「...ミルクですね!えっと、アイスミルクがおひとつで!」
「い、いやホットミルクで」
「あ、すみませんホットミルクですね...!」
店員さんはホットミルク豆鉄砲のせいでもう完全に集中力が切れている。
ホットミルクを頼んだくらいでそんなに戸惑うものなのか...。
確かに意外ではあるだろうけど。
きっとおじさんはホットミルクが好きなのだ。
寒い冬はホットミルクがうまい。
レンジで温め、膜が張ったホットミルクを、僕も昔はよく飲んだ気がする。
しかし外で注文するのが、おそらく少し恥ずかしいのだろう。
えーっと...という間には、特に飲みたいものがないから仕方ない、ホットミルクでいいや、というような芝居じみたニュアンスが感じられた。
それなのにあんなに何度も聞き返されるなんて。
かわいそうに。
きっとそのやりとりの間は、B'zのラブファントムのイントロくらい長く感じただろう。
あと少しで、いらない何も捨ててしまおうと言い出すところだったに違いない。
僕は見知らぬおじさんの心境を勝手に想像し、勝手に同情していた。
ようやくホットミルクに納得した店員さんは、レジの後方にある巨大なエスプレッソマシンのようなものにカップをセットし、スイッチを押す。
極限まで振ったコーラを開封した瞬間のような音とともに、蒸気が溢れる。
「お次の方どうぞ。」
店員さんに促され僕はトレーをレジに置く。
「こちらで?」
「はい、あとブレンドください。」
店員さんはエスプレッソマシンのもう一つの注ぎ口にカップをセットし、コーヒーのボタンを押した。
ホットミルクの隣で、コーヒーが注がれてゆく。
店員さんがパンのレジ打ちをしている間に、ふと隣の無人のレジに目をやる。
するとそこには、店内ご利用の方はイートイン税率の適用となります。というような内容の但し書きが貼ってあった。
まさかとは思うが、さっき店員さんが言ったこちらで、とは、イートインのことを指していたのではないだろうか。
そうであれば8%ではなく10%の消費税が加算されることになる。
「〇〇円です。」
「PASMOで。」
ピピッ。
疑問は残るが、確認するのも面倒なのでそのまま支払いをした。
さあどうする。
袋に詰めてくれるのか、トレーのまま渡されるのか。
そうこうしているうちに、先のホットミルクが出来上がる。
「お待たせしました。」
店員さんはホットミルクをおじさんに手渡し、再度コーヒーのボタンを押した。
よかった、おじさんはようやくホットミルクにありつけたのだ。
朝から大変だったね。
「コーヒー少々お待ちくださいね。」
そう言うと、店員さんはパンをトレーのまま渡してきた。
やはりさっきのこちらで、は、こちらでよろしいですかではなくて、こちらでお召し上がりですかのこちらでだったのだ。
油断した…。
しかし僕は怒らない。
ちゃんと意思表示しなかった僕が悪いし、なによりもPASMOの会計を取り消して再計算させるのは、ホットミルク豆鉄砲でフラフラになっている店員さんにはあまりに酷だから。
とはいえトレーのままでは持って帰れない。
やはり双方のコミュニケーション不足によって起きた過ちについて、僕は切り出すしかないようだ。
「すみません、持ち帰りなんですけど...」
店員さんは持ち帰り豆鉄砲を食った。
完全にフリーズしている。
「えっと、えっと...。」
すかさず僕は救いの手を差し伸べる。
「会計は大丈夫です。袋だけお願いします。」
「す、すみません!では袋代は結構です!」
「はい、ありがとうございます。」
店内に広がる優しさの輪。
世界はこのように平和であるべきだ。
ハトって平和の象徴だしな。
安心したようにパンを袋詰めする店員さん。
しかしそのすぐ後ろのマシンでは、店員さんの先程の二度目のボタン押下によって僕のコーヒーがドバドバと溢れていた。
言葉を失う僕。
どうしようコーヒーが溢れてる。
松本に相談しようかな。
でもああいうタイプのマシンは注ぎ込む量が決まっていて、きっと途中で止められないだろう。
ここは静観するしかない。
店員さんは袋詰めを終えて、思い出したようにコーヒーマシンに目をやった。
「ひ...!」
今なお溢れ続けるコーヒーに気がついたようだ。
店員さんは僕に背を向け、コーヒーを少し捨てて、カップを拭い、何事もなかったように僕に手渡した。
「ありがとうございました。」
僕はコーヒーを手持ちで受け取り、会釈して店を後にした。
薄汚れたカップに、やや少なめのコーヒー。
店員さんの苦悩が表れているようだった。
ホットミルクでここまで取り乱す人を初めて見たが、僕は少しのズレも許せない、セコい人間にならなくて済んだだろうか。
僕は普段あまり聴かないB'zを聴きながら、パンを咥え、仕事へと向かった。
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