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W-KEYAKI FES. 2022の前に、日向坂・櫻坂の方向性の違いを整理してみる

W-KEYAKI FES. 2021最終日、日向坂・佐々木がアンコールで、欅坂から生まれた日向坂・櫻坂はそれぞれ違う方向性で……というようなことを言っていたのが、ずっと引っかかりがあった。
確かに2グループのスタンスは対照的だった。小坂が離脱していたもののメディア露出が増え人気街道まっしぐらの日向坂、改名リスタートして半年ちょっとの櫻坂。かつての漢字/ひらがなのときとは逆の立ち位置になってしまった。
日向坂46は「アイドルとはこういうもの」を体現しようとし、「欅共和国」を引き継ぎ、再現したい意思があったと思う。クライマックスを盛り上げるのはひらがな時代の楽曲だし、最後は2坂道合同の『W-KEYAKIZAKAの詩』となれば、日向坂として共和国を再建できた達成感があったかもしれない。

ドキュメンタリー映画にみる「物語」

日向坂46のドキュメンタリー2作目『希望と絶望』は、タイトルの言葉の強さが話題になっていたが、これまでも(坂道は違うけど)「永遠より長い一瞬」「嘘と真実」とか反対の言葉を並べるのが好きみたいなのでタイトル自体にはさほど意味はない。「あんまり見てほしくない」とメンバーが口にしたりしてるけど、これは「ぜひ見てほしい」というフリにしか聞こえない。さまざまな逆境を乗り越え夢を摑む、そういう「物語」を繰り返していくパターンなのかなと思わせる。
1作目の『3年目のデビュー』(映画というよりテレビの特番みたいだ)を観てると、ひらがな時代からMVはつくられてたし、ツアーもあったし、武道館3DAYSからアルバムリリース、そして改名、とデビューまではむしろ成功の軌跡だ。コロナがなければ2年目で東京ドームだったわけだし。
長濱、柿崎、小坂らセンター的支柱が不在になると危機に陥るが、そのたびにメンバーの結束が強くなり、それがグループの最大の魅力とされた。日向坂としての今後の方向性が問われるシーンがあったけど、『青春の馬』のごとく、どんな苦難が待ち受けようと夢に向かってまっしぐらというビジョンが見えてきた。いわば「希望と絶望」のビジネスモデルでいくのだろう。ふりかかる困難はその都度違えど、団結し乗り越えていく構造は変わらない。それは、消費されるアイドル像ともいうべきものだ。

語り得ぬものについては沈黙すること

『僕たちの嘘と真実』では、櫻坂への改名のタイミングもあったせいか、欅坂メンバーたちは映画の宣伝はするけど内容については結構塩コメントしていた。菅井や小池が「あの頃はこう思ったこともありました(今は違うし)」「あの頃の私たちの記録(もう過去のことだし)」といったニュアンスで紹介していて、そこは嘘でも盛ったコメントするところではと思うのだが、ストレートな表現でもネガティブな裏返しアピールでもなく、淡々と紹介する。この映画で描かれるのは、自分たちの一部を切り取ってパッケージにしたカッコ付きの「欅坂」ですよ、と暗に言っているように思う。
劇中では、菅井は平手のことをどう思っていたか語っていないし(涙は流したけど)、小林も自分の気持ちを隠したままだ。語り得ぬことについては、彼女たちは口を閉ざす。真実は口に出せなくても、相手が期待するような答え(嘘)を用意することもできたはずだが、それすらもよしとしなかった。言葉を引き出せてないのは、単純にインタビュアー(監督?)の力不足や信頼関係が築けなかったこともあるかもしれない。発した言葉が「物語」に回収されることの気持ち悪さは、予告編でこれ見よがしに「私のこと嫌いだったと思う(菅井)」という言葉を挿入する趣味の悪さに通じる。
嘘と真実という二項対立は「物語」を呼び起こす。彼女たちの塩コメントは、欅坂版「希望と絶望」みたいな物語にNOを突きつけた結果だ。まぁ、単純にイヤだったのもあるんだろうけど。
監督はドキュメンタリー映画を撮ることに絡めて「嘘と真実」についての解釈をしてたと思うが、実際は彼女たちの嘘も真実を暴くことはできなかった、というのが真実なのかもしれない(ドキュメンタリーが純粋に客観的であるべきなんてことはまったく思ってない。監督の主観があってこそのドキュメンタリーだ)。

欅坂から遠く離れて

W-KEYAKI FES. 2021での櫻坂46は「欅」の呪縛からどれだけ遠くに行けるかという、日向坂とは真逆のスタンスだった。彼女たちは欅坂の曲を期待されながら櫻坂の曲を貫いた。欅坂の曲をやらないということは、櫻坂の少ない持ち歌でやりくりし、日向坂・櫻坂のコラボやシャッフルもないという結果となった。2022は、合同ライブはきっぱり諦めて交代でワンマンライブにしたのは当然だと思う。
2021年、櫻坂は「このメンバーでやれるのは最後かもしれない」という思いがモチベーションとなり、ひとつの達成感を満たしたと思う。2022年は、その言葉が現実になるとは思っていなかったが、危機的な感じはしない。複数センター制とバックスライブの成果でもあるが、メンバー卒業ぐらいでは動じない、グループとしての強度が上がっていることが大きい。
渡邉理佐卒業コンサートを経て、もう欅坂の呪縛もない。観る側の欅坂依存度もどんどん薄れているだろう(尾関・原田のセレモニーでは欅坂を解放してほしいけど)。

その意味では逆に日向坂に不安要素があるように思うが、「希望と絶望」は何度も再生され、その度目標達成がなされる。

櫻坂には、「希望と絶望」のような目指すべきモデルはないし、不要だ。バックスライブも含め、センターが変わるとグループの表情も変化する彼女たちを規定することはできない。常に「物語」からはみ出し続けることこそが、櫻坂の在り方であり、日向坂との非対称な対称性である。


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