[澤田和夫] 聖書で祈る:ご昇天の秘義

澤田和夫神父の『聖書で祈る』より、「ご昇天の秘義」。

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マルコによる聖福音第16章(14−20)を読みましょう。

  十一人が食卓についていたとき、イエズスさまはかれらにご自分をあらわし、かれらの不信仰、キリストが復活なさったのを見た人たちを信用しない、かたくなな心をおとがめになりました。

イエズスさまは、ご自分についてのほんとうのことを「あらわして」くださいます。わたしどもの心の中に。それも、平凡に、仲よく食卓をとりかこんでいるようなときに。聖書を手にして祈るときに。まして聖体の食卓をとりかこむ者にとってはなおのこと。

キリストさま、あなたについて、いちばんだいじなことは「復活」ということではないのでしょうか。復活して生きておいでになる。あなたはただ、昔の人なのではない。いま、聖書を使って話しかけ、いま、秘跡を使って働きかけるのはあなた。

 そして、こうおっしゃいました。「全世界へ出かけて行ってよい知らせを、すべて造られたものにのべ伝えなさい。信仰して洗礼を受ける人は救われ、信じない人は有罪とされます。そして、信仰した人に伴うふしぎは、次のとおりです。わたしの名によって、悪霊を追い出し、あたらしいことばで話す。へびを手でつかみ、毒を飲んでも害を受けることはない。病人に手をおけば病人はなおる。」

あなたの教えは、なによりもまず「よい知らせ」。この「よい知らせ」を受けとって、自分の中にとじこもってはいけない。出かけて行く。そして、だまってはいられない。みんなに、「よい知らせ」を伝えること。

「すべて造られたものにのべ伝えよ」とおっしゃるのは、どういうことでしょう。すべての人に福音を!だが、人が聞かないのなら、小鳥や、さかなにまで。アシジの聖フランシスコが、小鳥やさかなにむかって説教したというのはこういう心でしょうか。

十二使徒を選んで、教えを説く使命をおさずけになりました。教えをあやまりなく説く権能は、教会の中に受けつがれています。司教は十二使徒のあとをついで、全世界にむかって教えを説く任務をさずかっている。

「教えよ。」司教はただひとつの「教区」を「統治」する地方長官ではない。教える司教の神秘を、そして司教を補佐する司祭職の神秘をわたしたちはもっと知らなくてはならない。

十二使徒の首位に、漁師ペトロがいたように、司教団の首位にローマ教皇がいらっしゃいます。教皇は漁師ペトロのあとをついで、最高の牧者として教会をみちびく。それは、世界歴史をつらぬく神の御はからいです。

  さて主イエズスは、かれらに話し終わってから、天に上げられ、神の右の座におつきになりました。でしたちは、出かけて行って、いたるところで教えを説きました。主はかれらとともに働き、ことばに伴ういろいろのふしぎで、ことばが真実であることを確認しておいでになりました。

教える使命を教会に託してから、主イエズスは、「天に上げられ」たのでした。「ご昇天の秘義!」

われわれの世界の「うら」に、「反対側」に、いや「上」にといえばよいでしょう。いままでの物理化学がとらえない世界がある。神の霊が物を支配する世界。神の秘義の世界!輝きの世界!そこに、イエズスさまは、「突入」なさったといえばいいのでしょうか。「ご昇天」の神秘!神秘なればこそ、マルコ聖福音のことばは簡明。劇的な表現はひとつもない。「天に上げられた。」それだけ。でしたちも、雲を見つめているようなことはしない。出かけて行きました。教えを説きに・・・。主にささえられて。
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(沢田和夫著『聖書で祈る』P.26-29 ユニヴァーサル文庫)

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