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短編「穴」

夜の公園は、気持ちがいい。
春も、夏も、秋も、冬も。
晴れの日も。曇りの日も。雨の日もたまに。
ただ一人出向いて、街灯に照らされる木々の移り変わりと、たまに見掛ける人々を観測する。
考察はしない。そういうものではないからだ。頭の中をすっきりさせるための行為なのだ。難しいことを考えない。だから習慣化している。
考えないようにするというのは、意外と難しいものだ。
特に感情については。普段通り出社し、普段通り食事をし、普段通り帰路につく。
その最中にもそいつはやってくる。
孤独という名前のそれは、すぐにそばにやってくる。私のなかにはそいつがすぐやってくる。人混みにいればいるほど唐突にやってきては、私の中に腰を下ろすのだ。そうすると途端に日常がプラスチックでできた食品サンプルのように陳腐なものに見えてしまう。そうなる前に、私は自分からそいつに会いに行く。
12月の、平日の夜。空は澄んでいて、星もちらほらみえている。その分底冷えするような寒さだ。長居はとてもできそうにない。木々も落葉はせずとも瑞々しい緑はとうになく、到来する冬のためにじっと身を竦めていた。人影もない。逆に自分はどうみられているんだろうか。通報はしないでほしい、なんてことも思った。

「おい」

そんな折、背後から声がした。少し低めの男性の声。同年代か、少し歳上だろうか。壮年の声。人の気配も影も見当たらなかった。勘違いか?一瞬立ち止まったが、そのまま先に行こうとする。
「おい、こっちを向け。聞こえなったのか?」
明瞭な声。寒空に響く決して大きくはなく、しかし意思をもった声。聞かせる声質とはこういうものか。
人影がないので私を指しているのは間違いなさそうだ。声の方を振り向く。
声を掛けられた理由を思案しながら。

そこには猫がいた。きっと猫なのだ。顔が中心に向かって黒い穴が開いている以外は。黒い底なしの穴に見えるそれは光を反射せず、夜の公園ですら暗い。直感的に真夏の炎天下であってもその暗さには変わりがないように見えた。四肢は猫と断定できる程度にはオーソドックスな形状をしており、黒と茶の縞模様を背中に載せている。顔の輪郭は猫のそれを模していて、耳もはっきりと確認できる。愛玩動物の世界でも頂点を争う外見を有していた。顔の中心以外は。

驚いたが、今は深く考える時ではないと努めていたためもあり、すんなりとその事実を私の脳は受け入れた。誰も居ない夜の公園は少し非日常でもあり、細かな違和感を呑み込むには十分な暗さでもあった。

「猫なのかい、君は」
「やっとこっちを向いたか。猫みたいな外見をしているが、違う。猫がしゃべるか?」
「それもそうだね。ではなんだい?」
「私にもよく分からない。こういうものだ。名前も特にない。気付いたら存在していた。」
「・・・私に何の用です?」
「大した用事ではない。ちょっと話し相手が欲しかっただけさ」

そういうと"彼"は足元にすり寄ってきた。動作は猫そのものである。私が近くのベンチまで歩くと彼も付いてくる。それを確認した後、私は懐から電子タバコを取り出した。ボタンを押して、口を付けてゆっくりと息を吸う。
「健康に悪いぞ」
「なんだかよく分からないものに健康を気にされるのは不思議な感覚です」
「それもそうか」
彼はその様子を一通り眺めていた。寒空に、紫煙がゆっくりと吐き出され、そして程なくして消えていく。それを一緒に眺めながら、彼は口を開く。


「私は気付いてから、この公園にいた。いつ頃からは覚えていない。ここが、公園と呼ばれていない頃からだった気がする。それ以来、君たちをずっとみている。小さいのも、大きいのも、老いているのも若いのも。笑っていたり、泣いていたり。今のように話し掛けることもした。怯えられたり、無視されたりもした。中には話してくれる人もいた。殆どは、小さい子供だったが。

程なく皆帰っていった。そして、いつかは皆ここには帰ってこなくなる。また違う君達がくる。そんなことを、繰り返している」

紫煙が浮かんでは消える。寒空に沁みていく。
朗々とした、彼の声も同じ様にように。

「私も同じですよ。殆ど他人とは話さないから、もっとひどいかもしれない」
「そうなのか。そんな日々が嫌にはならないか?」
「だからこうやって、嫌が肚の底に溜まってどうしようもなくなる前に、先に会いに行くんです」

「成る程」

私の声も夜空に消えていった。彼はベンチに腰かける私の腿に触れ、今は乗ろうとしている。顔の穴を触りたくもなるが、失礼な気がした。


そして沈黙が流れる。
静かに。
紫煙を見上げる。
静かに。
とても寒かったが、何故か席を立ちたくなかった。腿の上は少し暖かい。ぼんやり。
本当の意味で、考えないということが出来たような気がした。

「ありがとう」

芯から身体が冷えたのを感じる頃、彼の声が聞こえた。

「特有のものではなかったのだな、この感情は。独りという感情を持っているのは独りじゃない」

彼が独りごちる。確かにそれもそうだ。自分の言葉で、自分も気付かされた。返事もせず、ゆっくり背中を撫でていた。


気付けば彼はそこにいなかった。
夜も明けてきた。どれだけの時間が経っているのか。子供達の声が聞こえる。とても寒いのに、元気な声が。部活動だろうか。

すっかり冷えきった身体を持ち上げ、帰路に着く。電子タバコのリキッドは切れていた。


自分の穴の形が分かった気がした。
そうやって私は帰路に着く。家路へ、変わらない日常へ。しかし陳腐なものにはもう見えない気がした。

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