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人をみるときの話

ちょっと前に呟いていたことの話。

これの話っす。仕事でもゲームでも、人間生きていると他の人の発言にモヤッとすることがあって。それが何なんだろうという所についての言及です。
で、個人的に引っかかるもののなかに、「周りの事を考えて俺は敢えて言ってあげている」みたいなのがあります。権力の暴走を止めるための監視装置である、みたいなやつですね。俺はこれが苦手でして。何故なら伝え方を蔑ろにしている感じを受けるからです。
いやまあ自分も伝え方でミスったなーってのは多々ありますけど、そこの努力を放棄してまで伝えることってどれだけあるのかなーなんて思ってしまいます。余程力関係が極端についているとか、そういうのでなければ伝える努力は必ずすべきなのかなと。
そんなこんなで、自分はとても気になってしまいます。
もう一つの理由は、喋った責任を放棄しているものが散見されるからです。「〇〇のためを思って、俺が皆が思うことを代弁している」みたいな人が居たとして。なぜ代弁する必要があるのでしょうか。皆そう思ってるに根拠があるのでしょうか。得てしてそれはただの枕詞で、実際はそんなことないのが大多数です。そうした場合、自分はこう思うと何が違うでしょうか?そう、責任の所在です。

こういった謎の代弁についてかなり苦手な傾向にあります。
元来言葉の責任なんて取れない事がほとんどですが、それでも、その辺は明確にしていきたいところです。

似た所で、いってどうなる?のネガティブ要素を場の空気を顧みず垂れ流すのもかなり苦手です。自分もやりがちですが、それなら改善の方法を探るかスパッと離れるかを選択した方が良い結果になると思うからです。

この辺が自分のもやっとする点で、こういったことをどのくらい見掛けるかによって、自分はその対象を勝手に評価してるかなと。
逆に責任を取ったり、何かネガ垂れ流すにしても出口なり処理方法なりを添えてやってる人は自分としては好印象になります。発言撤回とかはそうですね。頭を下げるという事は概ね良い方向になるかなと感じてます。


そんなところで明文化しました。たまにこういう話も書いていくかもです。

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