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【読書】言葉は人間の一端であり、世界の一端【七月】

七月の読書記録!

今月は全然読めてない。
三冊。

資格試験の勉強も全然進んでいない。
いっそ参考書を一周して読書の冊数にカウントしようか……。

読書も勉強もストイックに打ち込めたらカッコいいけど、そんなもんは都合のいい妄想だな。
生活しているだけで集中力が霧散していく。

突然ですが、こちらは凸ノ高秀さんの漫画です。

自分の黒歴史で特にヤバかったのはツイッターで汚い言葉に触れすぎて、自分も暴言をツイートしていたやつです……。現実でも口が悪くなっていた。
思い出すと「なんであんなことを言ってしまったんだ……」と胸中が荒れ狂う。

今回はそんな実体験を思い出し、反省し、そしてSNSで言葉はどうあればよいのかということを考えました。

あと関連して18禁ゲームの話もしたいので、18歳未満の方がもしいたら見ないでください。

荒井裕樹「まとまらない言葉を生きる」

「まとまらない言葉を生きる」は、言葉を考える本だ。

 いま、ぼくたちが生きるこの社会で「言葉が壊されつつある」ことを、実は多くの人が薄々感じているんじゃないか。お金や権力を持っている人たちの口から飛び出す言葉や、SNSにあふれる言葉が、何かおかしいし、息苦しいし、聞いていてつらいと感じる人が、決して少なくないんじゃないか。

荒井裕樹「まとまらない言葉を生きる」11頁

「言葉が壊れてきた」とは、人を傷つけるような言葉が生活圏に紛れ込んでいることへの恐れやためらいの感覚が薄くなってきたということ、国会質疑や記者会見で説明から逃げるような発言や、勢いだけで中身のないスローガン的な言葉が増えて、「質」として重みのない言葉が増えてきたということだ。
荒井さんは「言葉が壊れてきた」ことへの危機感を抱いている。

でも、この本で考えたいのは、この「短い言葉では説明しにくい言葉の力」だ。
 言葉には、疲れたときにそっと肩を貸してくれたり、息が苦しくなったときに背中をさすってくれたり、狭まった視野を広げてくれたり、自分を責め続けてしまうことを休ませてくれたり……そんな役割や働きがあるように思う。

荒井裕樹「まとまらない言葉を生きる」12頁

この本は結論を示す本ではなく、「言葉の力」が感じられる経験を丁寧に書くことによって、まとまらない言葉の力を読み手に感じ取ってもらう、そんな本だと思った。

言葉の力が感じられる一端

全てのエピソードが丁寧で、じっくり立ち止まって考えたいものだった。
その中の一つを紹介したい。

荒井君、評価されようと思うなよ。人は自分の想像力の範囲内に収まるものしか評価しない。だから、誰かから評価されるというのは、その人の想像力の範囲内に収まることなんだよ。人の想像力を超えていきなさい。

荒井裕樹「まとまらない言葉を生きる」202頁

これは荒井さんが障害者運動家で文筆家・俳人の花田春兆(はなだ しゅんちょう)さんから言われた言葉だ。

荒井さんは職業柄、この本をはじめとして、たくさんの文を書いている。

 でも、「わかりやすさ」「読みやすさ」「面白さ」を気にしすぎると、自分の大切なものまでヤスリにかけてしまっているような気がしてくる。
……
 自分が悩み、もだえながら考えていることを、相手の興味関心に収まるように、相手の想像力の範囲内に収まるように、切り詰めて、スケールダウンして描く――それがどれだけつらいことか、果たしてわかってもらえるだろうか。

荒井裕樹「まとまらない言葉を生きる」205頁

この荒井さんの気持ちに共感できた。

自分は一次創作も二次創作もするけれど、どうしたら面白いと思ってもらえるのかと悩んでいた。最近は構想段階でアレも駄目コレも駄目という感じで、執筆段階に全然入れていなかった。
でも、そうじゃないのかも……、と花田さんと荒井さんの言葉に少し勇気づけられた。

何かを言葉にしたいと思うときには何らかの動機があると思う。
それが何気ない気持ちか、突き動かされた衝動のような気持ちか、そういうのは関係がない。
言葉にする/しない、という選択で、言葉にする方を選んだということが結果であり理由である。

そして、言葉にすることをあえて選んだ人に、気持ちを犠牲にして分かりやすくしてください、という要請があるとすれば、それは否定したいと思った。
他人を傷つける言葉でも好き放題に言っていいという意味ではない。
漠然と存在する大義のために個人の気持ちを削るという構図はおかしいということだ。

言葉の世界と現実の世界の強い関連性

言葉の使い方、発され方がどうあればよいのか。
この本を読んで特に考えたのはSNSでの言葉の在り方だ。
SNSなんてネット上の架空の空間だ……と思わない方がいい。

突然ですがエロゲの話。
「Renaissance」というゲームで、まず煉瓦さんの描く絵が好きなんだよな。DLsiteでたまに500円で買える。一部、扱い方が古いなと感じる部分もあるけど面白い。発売は2001年。

ネタバレになるので内容は詳しく触れないけど、このゲームで描かれるのは言葉と現実世界の関係だと思う。
言語学に詳しいキャラがいて勉強してる大学生みたいな話をしてくれる。こういうエロゲが好きなんだよ。
このゲームでうならされたアイディアと本を読んで思ったことがリンクしたので紹介しました。

ゲームではインターネットについての指摘がある。
(正確に覚えているわけではないのだけど、)「インターネットは言葉の世界だ」、すなわち、言葉のみによって成り立っている世界だという考えが示される。

たとえば、ツイッターが分かりやすいと思う。
ツイッターに姿形のある実体の人間はいない。
入力されて送信された言葉だけだ。
ツイッターではアカウントを動かしている誰か(“誰か”すらいない、実体のないアカウントもある!)によって言葉が発せられ、言葉がタイムラインを流れて時にリプライなどで交流する。
発せられた言葉だけがツイッターの世界を構成する。
画像もあるけれど、言葉だけで完結している世界だと言える。

(関連して、現実に価値なんかない物でも、ネット上の言葉によって「物語」にすることにより価値を操れる、というネットと実体との乖離を指摘した王城夕紀「マレ・サカチのたったひとつの贈物」という本もあり、面白い。)

インターネットに誰もがアクセスすることができ、日常生活になった今、現実の世界と別に言葉の世界を観念することが可能だと言える。

「まとまらない言葉を生きる」に戻ろう。

この本では、SNSを日常空間だと位置づけて、その空間での言葉の壊れを指摘する。

私自身、一日1時間はSNSを見ているし、SNSでしか連絡がとれない仲間もいてもはや生活になくてはならないものになっている。

SNSで言葉が壊れるとどうなるのか。
すなわち、憎悪の言葉を簡単に発してしまったり、嘘や広告のキャッチコピーのような言葉ばかりが溢れかえるようになったらどうなるのか。

私は、その状況が言葉の世界(インターネット)という架空の場所にとどまらず、現実の世界に波及して、いずれ現実の世界を実際に変えてしまうと思っている。

言葉は特殊だ。
人の気持ちを、不完全だとしても示すことができる。
見たこともないものを、言葉の受け手にも見せることができる。

私は今部屋に一人きりだけれど、数年前に買ったノートパソコンに向かってキーボードを叩いていると言えば、どこか遠くにいる人にも状況を伝えることができる。
なぜそんなことができるのかというと、言葉は無数にあって、様々な物に名前が付き、行動や気持ちを表す単語があり、現実の世界を網のように覆いつくしているからだ。

つまり、言葉は世界を作ることができる。
材料は十分にそろっているし、作成も文法を少し知ってしまえば簡単だ。
現実世界の状況を説明することもできれば、ありもしない世界を立ち上がらせることもできる。
世界を作る力がある点で言葉は特殊だと思う。

他人に放った言葉が自分に跳ね返ってくることがある。
たとえば、失敗した誰かを「自己責任だ」と非難した。
でも偶然自分が失敗した側の立場になってしまった。自分で言った手前、簡単に助けを求められず、自分を責めて追い込んでしまう。
どこかで覚えのある感覚だ。ブーメラン。

なぜこんなことが起こるのかというと、言葉には世界を作る性質があるからだと説明できる。
「自己責任だ」と言えば、言葉は現実の世界と対応して、言葉の世界から現実の世界を意味づける。
仮に、現実の世界に「自己責任だ」という考えが存在していなかったとしても、発した言葉が世界を作る結果、そういう現実の世界になる。

他人に放ったはずの言葉は自分自身の世界を作る言葉でもある。
だから、その世界で生きている私たちに跳ね返ってくるのは当然だ。
誰かを許容しない言葉を是とすれば、それが現実の世界を構築し、実際の生活を規定していく。

言葉には、他人の経験も自分に置き換えて考えることができるという性質がある。
そうすると、他者との代替可能性もブーメラン現象の説明になるとも思えるな。

いや、そもそも言葉は現実の私たちが発するものだから、現実の一部だし、強い関連性があるのは当たり前じゃないかと言われればそうなんだけど。

インターネットは匿名性があって誰もが気軽に言葉を発することができるから、憎悪など、現実なら踏みとどまる言葉が発しやすい場所だと思う。
また、フォロワー数やリツイート数など「画面で明確に示される数」が言葉の価値に直結するように感じられてしまい、事実の真偽やその考えの正しさについて判断を誤らせる。(その数自体、架空のアカウント、表示上のミスなどの可能性を考えれば信用に足るものかあやしい。)
インターネットという「言葉の世界」は、言葉の力を軽く考えて見誤ってしまいがちな構造をしていると思う。
だから、言葉が世界を作ることをあえて意識する必要がある。
そして、SNS上での言葉を軽視すると現実の社会がとんでもないことになるのかもしれないと感じる。

そもそも、実体のないアカウントが跋扈して、実体の伴ったアカウントと同等に並んでいるのは危険だよな。
極端な話、それっぽい人物像を作成して膨大なフォロワー数、リツイート数を何らかの方法ででっちあげられてしまったら、言葉の真偽を見抜くのは困難だ。
言葉の世界での物語化と価値づけが先行して実際の現実を変えていくのは簡単なことなのかもな。
もしかしてこの話、虐殺器官ともつながる? 読み直さねば……。

言葉が「降り積もる」とすれば、
あなたは、
どんな言葉が降り積もった社会を
次の世代に引き継ぎたいですか?

荒井裕樹「まとまらない言葉を生きる」カバーの見返しより

降り積もった言葉がこの世界を作っている。

……今、自分が正しいと思っている価値観も、十年、二十年、いやもっと早いかもしれない、どこかで正しくなくなる瞬間が来るのだろうな。

生きている間に一度も出会わないような、顔も姿も知らない、私の想像なんて及ばない人が苦しまない世界になっていてほしい。少しでもマシな言葉を選ばねば……。

言語に他者との代替性があるのなら、私もまたなり得たかもしれない他者である。
言葉の世界が現実の世界と対応するようになっているのならば、他者との代替可能性だって現実の世界で論じうると思う。

SNSだから、インターネットだから何を言ってもいいというのはおかしいのだ。そういう現実に私たちは生きている。


この記事では恣意的に本の一部を引用しました。
要約できない言葉の力を示す本なので、よかったら全部読んでみてください。

今月は好き勝手考えたことをつらつら書いてしまった。
読書の感想というか日記だな。全て適当です。

読んでくれた方はありがとうございます。
また来月。

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