書評| 山本浩貴 『現代美術史/欧米、日本、トランスナショナル』

ボクは常に同時代(=コンテンポラリー)に関わりたいと思っています。音楽もビートルズよりテーム・インパラを聴いていたい。映画も小津安二郎よりクリストファー・ノーランの『TENET』を観たい。落語も古今亭志ん生ではなく柳家喬太郎の高座に行きたい。今でこそ過去のクラシックにも関心を持つようになりました。でも、20代まではクラシックを憎み蔑んでいたと思います。「ビートルズ?ざけんじゃねーよ」みたいな。

当然ながら美術もルネッサンスとか印象派とか大嫌いでした。積極的に嫌いでした。これは多感な頃にアメリカ東海岸に住んでいて、ニューヨークのギャラリーを巡り、MoMAやグッゲンハイム美術館に入り浸っていたせいもあると思います。アメリカに行く前も、青山のレントゲン藝術研究所で村上隆の白いダッコちゃん人形とか見ていたので、それがアートなんだって思っていました。印象派みたいな巨匠の絵画は「かつてアートだった遺品」だと思っていました。

流石に今は丸くなって、そこまでトンがった考え方はしていません(笑)

いまは「昔の作品」も「今の作品」もそれぞれの良さがあると思っています。ただ、同じ時期に昔の作品の展示会と、今の作品の展示会があれば、間違いなく今の作品の展示会に行きます。選べるのであれば、ボクは常に同時代に関わりたいと思っています。

ボクはあまりアートに関する本は読まないんですよ。アートはアーティストとボクとの対話だと思っている。作品をどう解釈するかはボク次第。解説はノイズでしかない。画集は買いますよ。実物じゃなくて写真でもいいから観たい。ただ、アート論みたいなのには興味がない。じゃあ、なんでこの本 『現代美術史/欧米、日本、トランスナショナル』 を買ったんだ?って話ですよね。長い前置きでした。いやあ、小沢剛さんのツイートがイケメンすぎると思って、勢いで買ったんですけどね。

で、感想。やっぱりアート論って難しいなと思いました。マルセル・デュシャンの『泉』の重要性はわかるんですよ。あれが現代アートの出発点の一つであるのは確か。音楽であればジョン・ケージの『4分33秒』が現代音楽の出発点であるのと同じ意味で。『泉』以降、アートはなんでもアリになった。ビッグバンみたいなものですよ。現代アートって類型化して整理整頓できないくらいに広がってしまったと思うんですよ。

残念ながら本書で解説されている類型は全く興味がない分野でした。それはそれで悪いことじゃないんです。一冊の本でコンテンポラリーなアートを捉えることは不可能だってだけです。

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