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転職体験記2 (2度目の大学生活)

今夜のジュピくんはコタツの中です。私もコタツに入ってこれを書いています。
転職体験記の2回目、2度目の大学生活について。

自由な時間

残業もなし、仕事の心配もなし、人間関係のしがらみも一気に解消されて、急に何もかもが自由になった2年間でした。抑圧されていた個性が一気に解放されて、興味が四方八方に広がり、ある意味大忙しの時期でもありました。

大学選び

教員免許は大学で必要な単位を取得して、教育委員会に申請するだけです。母校に通えば全ての単位は取得できたのですが(確か)、せっかくもう一度大学に通うならと、東京学芸大学にも籍を置くことにしました。かつての師範学校ならば、教職の授業も他の大学より熱が入っていて面白いのではないか、先生たちも、「一応教職の科目が設置されている大学の授業」より、本気で教員の卵に伝えたいことを教えているのではないか、という目論見がありました。ちなみに、単位を取得する目的だと、難しい入学試験は必要ありません。

見立て通り、教職の授業にも熱が入っていて面白かったですが、それ以上に私が痛感したのは、国立と私立の違いでした。母校の早稲田大学も、講義は十分に興味深かったですが、国立は学生が少ないので先生との距離が近い。この違いは想像以上に大きかったです。学芸大での講義は年間で6つくらいしか取らなかったですが、ほとんど全ての講義で先生としっかり話をしました。ゼミでもないのにこんなに密接に教えてもらえるなんて、驚きでした。。

学ぶ喜び

勉強するのは楽しかった。授業料は自分で負担したのも理由ですが(早稲田の授業料は…高かったです。。)、講義はしっかり受けました。何より、座っていたら先生が体系的に知識を整理して教えてくれることがありがたくてたまらなかった。図書館の本の多さにも感動して(母校なのに)、結構通いました。図書館で本の背表紙を見ながら、全部読めたらいいのにと興奮していたなぁ。仕事中は、未知の分野に出会うと自力で調べるしかなかったため、納得いく答えにたどり着くまで本当に時間がかかりました。最短距離を教えてくれる教育システムは素晴らしい。

自分を知る

学問に限らず、興味を持ったことやこれまで挑戦してこなかったことに片っ端からチャレンジしました。憧れていた仕事を一度やり終えた私には、もう躊躇う理由はなかった。多くの大学生が経験するだろうこと、自分は手を出さなかったこと。海外一人旅や自分には向かないと避けていたアルバイト、スポーツ、ファッション、あらゆること。時間とお金が許す限り詰め込みました。講義も結構あったので、遊ぶのにも大忙しで何度も体調崩しました。笑

この時期に力を入れたことは、現在まで影響を受けています。服の好み、趣味、友人たち。私は、自分のことを全然わかっていなかったことに驚き、そして(少し大袈裟ちっくですが)、人生は毎日結構楽しいことを知りました。都庁時代は、朝起きるときがとても苦痛でした。この時期は、朝目覚めると「今日は何をするんだっけ」とその日一日を楽しみにすることができた…。こんなことって本当にあるんだ。今までの生活って一体何だったんだろう、損してた。。幸せだ!私はギャップに引きました。それまで、いかに自分がストレスまみれだったかを痛感することにもなりました。

葛藤

新しい自分を発見する毎日を過ごしながら、タイムリミットも気にしていました。生活費と学費を賄うためには、学生生活は長くて2年でした。2年経ったら仕事が必要でした。私は、教員になりたくなかった。本心では、芸術の世界に関わりたかった。学校しか知らない先生たち、狭い世界、子供相手の仕事をして自分は果たして成長できるのだろうか、、今思えば失礼な話ですが、そう思っていました。

最後は、現実的な人間です。わがままも言ってられない。仕方なく、教員の就職活動を最低限はしていました。面白いもので、落ちてもいいやと肩の力を抜いて試験を受けてみると、すんなりと複数校から採用されました。嬉しいような、結局向いているのかな…と言われているような、複雑な心境でした。2年間が終わるギリギリまで悩んだものの、生活のために教職を選びました。

選択

採用された学校のうち、どの学校を選ぶのか、ここからが私の新たな試練の道の始まりでした。憧れの都庁を4年で退職した、という経験は、判断に後悔はないものの、自分の選択に自信をなくさせていました。最初に選んだ学校と相性が悪いことは多いにあり得ると考えた私は、正規の教員ではなくて非常勤として複数の学校に勤める選択をします。自分の教諭としての適性をまずは見極めようと、社会的地位は置いておくという、今までとは違う選択をしたのでした。なかなかハードな選択だった。。

つづく…



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