梅雨明けと減量(日記)

繁忙期が終わってから色々と予定があって、今日は久々に何もない日です。髪を切りに近くのお店に来たら開店からすごく並んでいたので、その時間を利用して書いています。

梅雨が明けました。梅雨明け間際、久しぶりに空雷を見ました。雨が降っていないのに空には稲妻が走る。自分は南東北から北関東にルーツがあるのですが、こういう空模様を「空雷様」と言ったりします。空雷様は、雨に邪魔されない、雷の独壇場です。梅雨ののっぺりとした灰色の空に現れる雷の演舞。

昨日は母が遊びに来たので外でご飯を食べました。それで昔の話していたのですが、わたしは神経質な子どもだったようです。隅っこが好きだったというエピソードを聞いて、昔から変わらないんだなと変に納得しました。

健康診断が7月にあるので、食事を少し変えています。コロナ禍で飲み会が減ったので、今が減量のチャンスかもしれないです。

朝ごはんは、基本もち麦ご飯に卵と納豆です。
お昼はわりかし好きなものを食べて、夜は動物性タンパク質枠の魚か肉、それに豆腐、もずくあたりです。ご飯抜きです。

おやつは洋菓子がダメで、食べるなら和菓子になりました。炭水化物(糖類)はOK、脂質は減らす、という感じです。

ここ一月くらいは、この食事が続いています。
一月で4キロくらい落ちましたが、これは塩分が減って余分な水分が抜けたせいなんでしょう。ここからはもう少し緩やかに落ちていく気がします。

案外続いています。好きなものを食べれないストレスがもう少しあるのかと思っていましたが、そうでもなく、ほどほどのストレスを心地よく感じています。

こう書いていったところで、自分の中の否定性が顔を出します。有用じゃない文章だ、とか、そんなの誰が読むの、とか。

それで書くのをやめてしまうことの方が多かった。それでも今日は、そんなの知らんと思いつつ書き進めてみます。

規範、あるいはルールというところに対する意識が、最近少し変わりました。

端的に言うと、神経質さが少しおさまってきて、やりたいようにやって、ダメならその時に考えよう、というモードになってきました。

減量もそうで、書くこともそうですが、こうなるかなと想像しても、実際すんなり上手くいくわけでもないです。それでも続けてみる。その方が楽しい。

社会に出てひしひしと感じたのは、本当に多くの人が、黒々とした否定性を持って生きているということです。わたしも含めて、です。

自分史がもつ歴史の重みというか、未練のあるままに過ぎ去っていった過去の重さによるところが大きいのでしょう。

かけた時間の長さは価値を構成する要素だと思いますが、しかし思うようにならなかった時間は、それでも価値がある、とはなかなか思えません。


髪を切るまでの待ち時間に、本屋さんに行っていました。東さんの「ゆるく考える」をさわりだけ読んでいました。そういえば、自分の住んでいるところは山や台地がなく、北に行けば標高1000m弱の山があるくらいで、いつも水平移動のみで暮らしています。社会人になって車通勤になりましたから、本当に移動が輸送になったというか、移動時間は極力減らすべき部分、という考えが染みつきつつあります。そして勤務地が変わらず出張も少ないので、同じ風景ばかり見ています。同じ映画をスローで何度も見ているような感覚。

思考の体力を節約しているのでしょうけれど、同じ風景だけでは退屈です。観光地に行って名勝や風景を楽しみたいか、といわれるとそうなのですが、それは非日常の過ごし方で、そちらよりは日常の過ごし方、もっと絞れば日常の移動について、問題を感じています。

たくさん本を目の前にして、焦燥に駆られるというか、早く消費を始めなければ時間がもったいない、という催促の声が、内面にあります。
輸送としての移動をしている時も同様で、早く目的地につければそれでOK。経路は最節約的に見積もり、移動中も風景は見ず、音楽や動画や読書をする。

おそらく、これが当たり前でしょう、と思っている方が多いのかもしれません。現代を生きるというのはそういうことなんでしょう。それにしても忙しないです。



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