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VUCAを目の前にして雨乞いをする

久々の投稿です。前の投稿から1年以上経ちました。

最近のことを話すと、近頃は帰りの車の中でCreepy NutsのBling-Bang-Bang-Bornを口ずさめるよう練習しています。車通勤だからできることですね。イントロが音域的に難しいです。あと、歌唱に寄らないようにするのが難しい。この曲を聞き始めてから、マッシュルもアマプラで見始めました。

自分で考えてね、といきなり言われると、いつも面食らってしまいます。
考えるというのは、意識だけでなく無意識も活用することだと思います。無意識を活用するというのも変ですね。意識的に活用できるなら無意識とは言わないでしょう。
野矢茂樹さんは「哲学な日々」で、考えるというのは雨乞いのようなものだと言っています。こうすれば必ず答えがひらめくなんて方法はない。散歩したりコーヒーを飲んだり風呂に入ったりしながら、考えが進むのを待つ。
生活から無意識が排除されていくように感じています。考えることか生活の周縁に追いやられて、生活や仕事が、意識に上ることをいかに正確に時間をかけず扱えるかのゲームになっている。
そういうゲームの攻略方法を知っておくことは必要だと思います。けれどあんまりにもそればっかりです。嫌になってきます。それだけのゲームは、全然面白くない。

ルーティーンで元気になる、というところがあることを実感しています。あ、元気がなくなってきたな、と感じたとき、今までのルーティーンに戻る、あるいはルーティーンを見直すことを意識しています。家事なんかがまさにそうで、身の回りの整理もそう、ノートアプリへの記入を読み返すのもそうです。
仕事ではここ3年くらいメモアプリを使っていて、自分の仕事、期限、周囲から聞こえてきた話などをメモすることが習慣になっています。

最近業務が変わり、ルーティーンが失われ気味で、体調が悪いです。見通しの立たないように見える仕事が増え、そしてルーティーン的に処理できる仕事でも、前の業務より時間がかかる。それにルーティーンが定まるまで、暗闇の中を進むような時間が続く。

ブーカ(引用者註.VUCA)とは、変動性、不確実性、複雑性、曖昧性のアルファベット頭文字を並べたもので、グローバル化した現代のぐちゃぐちゃした状態を指し示す単語だ。

「水中の哲学者たち」p51


ブーカに直面すると心がざわつきます。いやだいやだ。怖い。身震いするような偶然性や、いざ直面すると圧倒されるような他者性は、そう簡単には飲み込めません。
けれど一方で、他人にとっては面倒なものだと思いながらも、自分のごちゃごちゃした面をそのまま抱えていたくもあります。簡単に言語にして、構造化しないでよ、と思う裏腹な気持ちもあります。それが心というものだと思っています。そう思えるうちは元気なのでしょう。

生活でも仕事でも、具体的なタスクは自分のモヤモヤなど知らん顔で近づいてきます。慇懃無礼な感じで寄ってきて、断りづらい風に仕事を言い渡し、さっと帰っていく。

休みに一人仕事をしていると、自分のキーボードの打鍵音が思ったよりうるさいことに気づきます。業務が変わってから、キーボードも静音のものではなくなっていました。いつもは周りがうるさいから全く気にならないのですが、意外と些細なところからストレスを感じているんだなあと改めて思います。
自分の周囲に気を配り、細かく問題解決していくことを、甘く見てはいけないと思います。大きなストレスがかかって、目の前が前途多難に見えるときは特にそうです。

ハイデッガーはその思い込み、あるいは思い上がりに横やりを入れているのです。いや、管理し続けなければならないのは管理できていないということだ、と。

「原子力時代における哲学」85p

自分を管理するというのは大変なことです。
20代前半よりは、生活を管理できるようになりました。どんなに翌日嫌な用事があっても、諦めて眠ることができるし、朝は起きて時間通りに出社しています。ただ、そういう風に自分を管理することで、失っていることが確実にあるだろうと思います。無理やり自分を管理している部分があって、あえて見ないふりをして先に進んでいることがある。

仕事の中で、前向きであれよ、という圧をよく感じます。「我前向きゆえに我あり」をモットーにしていそう、とまでは言いたくなる人とは滅多に会いませんが、みんな多かれ少なかれ、無理やり前を見て仕事をしていると感じます。

いま、私たちの社会を覆い尽くしているものーそれこそ、まさにこの「前傾への強迫」にほかならない。蓋然性の高いデータをもとに「あらかじめ」先を見通すことが推奨され、「やってみなければわからない」といったたぐいの不確かさはとことん忌避される。

「ことばを紡ぐための哲学」p139

自分が生まれる前から、もっと言うと日本が近代化を始めた明治のころから、私たちは前傾への強迫を感じてきたのでしょう。この流れには抗いがたいというのも、多くの人が感じてきたことだと思います。

弱い規範や曖昧なルールとどう付き合えばいいのでしょう。ルールが分からず余計に傷ついたという経験はよくあります。ブーカの時代の話をしなくたって、自分の小さかった頃も弱く曖昧な規範に囲まれて生きてきました。

普通におしゃべりしていたつもりだったのに喧嘩になってしまった。
この人にこの話を聞くべきではなかった。
今聞くべきじゃなかった。
返し方を間違えた。
話題を広げすぎた。
何も言えず会話が続かなかった。

ルールをはっきりさせたくて、でもそんなことは土台無理で、傷つきながら生きていく他はないというのも分かります。レジリエンス、レジリエンスと心の中で唱えます。

傷ついてばかりと思われるのも癪です。回復の時間は絶対に必要だけれど、傷ついたことに対して受動的ではいたくない。けれど傷なんて無視して、能動的な人間になるんだ!というのも違うと思います。

会話の中で、いやいや違うでしょ!と話の腰を折るとか、自分だけ話続けるとか、難しいです。SNSの普及で双方向のコミュニケーションがベースになった世代だからでしょう。プロレス的に立場を明確にして話すのが苦手で、ポジショントーク的になってしまう。

これが例えばレジスタンスが苦手ということになるかは分かりませんが、とにかくそういう自覚があります。

だから、ただペルソナを使い分けて話すだけになる。ある程度生きてきて、そういう表層的なふるまいは大事だとも思います。ただ、そういう表層については、もう少し時間をかけて考えなくてはいけないとも思います。

(中島)いまの大学を覆っているある種の透明性要求は非常に強烈です。これを拒否するのは難しい。なぜかというと、それは今日的な啓蒙の言説と手を結んでいるからです。それに対して、不透明性とか、隠れるというためには、相当いろんな仕掛けが必要だろうと思いますね。

(星野)単純にひきこもるのではなく、現れたまま隠れるという戦略もありますね。ペルソナの使い分けという表層的な話ではなく、いかに公共空間のなかに新たな通路を見いだしていけるか、という。

「ことばを紡ぐための哲学」p149

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