海と風景

四国の宿で書き始めました。生まれた土地からだいぶ西に旅行に来ています。

フェリーで香川県の島に来ました。瀬戸内海は波が穏やかで、空もほどよい晴れでした。海鳴りが聞こえない。近くの木々が海風できしむ音も聞こえない。

穏やかな風景の中にいて、焦燥感はない。けれど何となく寂しい。ちらほらと海を眺める観光客がいて、お店の前に人が立ち、寄ってきたお客さんに世話を焼いている。ここを見るといいよ。あそこには行ったのかい。今の時間ならこことここは空いているからお昼にいいよ。

11月も終わる晴れの日。夕方に日が沈んでいく海を見て、ああ、うら寂しいとはこういうことなんだと思いました。

海の方に目をやります。白波が立っていない、立ったとしてもわずかで、エメラルドグリーンと黄土色の混ざったような水面が続く。そのまま空に続くかと思いきや島が現れる。ぽつぽつと島がある。あれは◯◯島、その向こうは本州、等々。

旅をすると、大小様々な否定に出会います。道路が狭い、斜度がきつい、家が密集している、山や海に囲まれて土地が少ない、等々。

否定に囲まれながら、なんとか生活をしている方たちを、肯定としての生活をしている地域の方たちを、観光者として見る。異邦人として見る。

景色が流れていく。ひとところに留まる時間など、そこで生活する方に比べれば圧倒的に短く、景色を細かく見る時間はない。

風景は形態や色、音、手触り、空間や時間、植物や動物や鉱物、地形等々の要素で構成されます。雑然と並べましたが、抽象度はバラバラです。温度、湿度、高度、深度などの尺度水準も含まれるでしょう。

構成要素を知れば風景が生き生きと立ち上がるかというと、そうではないのは直感として思います。それでは私が見た風景を他人に伝えたいと思うとき、どんな方法が、あるいは工夫があるか。


内海を走るフェリー。港から出て、向きを変え島に向かうフェリーの中で、海面がやけに近く感じます。勢いに任せこのまま沈み、海水が流れ込んでくるのを想像する。はっとして、海の先の島々を眺める。

今回の旅行で高知の海も見てきたのですが、高知の海は瀬戸内海とはまた違った風で、怖かった。畏怖という感覚でした。初めて自然は恐ろしいと感じた。身震いした。明瞭な景色で、波は激しく、透き通った水の下、海底はどこまでも深いようでした。

いつも意識していないところを指さされたようで、ぎくりとする。何か途方もないことを忘れていたようで、身体がこわばる。

思わぬところに空間がある。生活している空間がほつれて、海の底が見える。どこまで深いのか分からない海があることを肌で感じる。

旅行はいいです。否定も肯定もないまぜになってそのまま自分にぶつかってくる。四国にはまた来ようと思います。


(ねこやなぎ)

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