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雲渦巻く〈雲南省〉少数民族自治区探訪記~巨岩の村「宝山石頭城」~

世界遺産にも認定されている「麗江古城」から北に117キロの位置に、「石頭城」と呼ばれる村がある。話によればその村は、金沙江の河岸にある巨大な奇岩の上にあるのだという。

2004年10月、チベット辺境まで向かう長い旅のはじまりに、私と旅の仲間はこの「石頭城」を訪ねることにした。

雲南省における麗江市宝山のだいたいの位置(白地図専門店さま)

前日に雨が降ったため、村までの道はひどくぬかるんでいる。タクシーをチャーターしたのだが、あまりに道が悪いため、途中で運転手が「ここからは無理だ。歩いてけ」と匙を投げてしまった。

「村までは6キロほどだ。近いよ、安心しろ。君たちを騙したりしない」

そう言われ、「じゃあ歩いていくか」と歩きだした途端だ。
ぬかるみにはまっていたトラックの運転手が声をかけてきてくれた。

「ここから36キロはあるぞ、歩くなんて無茶だ! 俺も石頭城に行くところだから、ついでに乗ってきな!」

中国人の「近い」と「騙さない」ほど、信用ならないものはない。こんな山岳地で、スマホもない時代に「36キロ」を歩かせようとは。
唖然としながら、私たちはありがたくトラックに乗り換え、石頭城を目指すこととなった。

途中、トラックが山村の小さな学校の前を通りかかった。
ちょうど石頭城から戻ってきたという韓国人の旅人が、カメラを手に学校を撮影していた。
その関係でだろう、道いっぱいにまで子供たちがあふれていて、私たちも思わず、にわか撮影大会に参戦してしまった。

カメラを向けると、子供たちは笑い声をあげながら、ぴたりと整列。四方八方からカメラが向いているので、あっちを向いたり、こっちを向いたり大忙し。笑顔がとってもかわいらしい。

山村を通りすぎ、トラックはやがて「文化村」という小さい村に到着する。

トイレ休憩で立ちよっただけだが、トイレ脇の崖から見下ろすと、絶景が眼前に広がった。山の斜面に黄色い棚田、青い山々……トイレにしておくにはもったいない場所だ。

この辺りはもう奥地のようで、村内の便利店はいかにも田舎という雰囲気をかもし出していた。
便利店は、直訳するならコンビニ。傾いた小屋に裸電球一つ、埃だらけの馬の鞍の横に、お菓子や、バトミントンの玉が無造作に並ぶ、いわゆる「何でも屋さん」だ。

タクシーを強制下車させられたあたりから、一時間半ほど。
周囲には険しい山々がそびえ、いつ石頭城が現れてもおかしくない雰囲気が漂いはじめた。
険しい山峰は、ちぎれ雲を引っかけて、奇観を作り出している。間もなくという予感がしはじめるが、実際は、ここからさらに数時間がかかった。

この周辺の山々は、運転手にとっては近所のようなものらしい。途中「乗せてくれ」と色々な人が、空いている席に乗っては降りていく。
そしてさらに山を越えて、どれほど走ったか……ついに険しい山に囲まれた谷の中に「石頭城」が姿を現した。

奇岩のうえにたつ村「宝山石頭城」の絶景

麗江片区、宝山「石頭城」。
金沙江の川辺に屹立する巨岩の上にたつ、納西(ナシ)族の村だ。

「石頭」というのは中国語で「石」、「城」は「町」の意味だ。日本語の「石頭」の意味があるわけではない。
深く険しい谷を30分ほどかけて下山すると、徐々に石頭城が眼下に近づいてきた。
石頭城の背には金沙江の流れ。山々の斜面には棚田が広がっている。
瓦屋根の家々が巨大な岩にしがみついている様は、まさしく「奇村」の名に相応しかった。

家屋の屋根下や窓枠に塗られた赤色が美しい

やがて道の先に、石頭城の巨岩が姿を見せはじめた。
賑やかな旅の一行を珍しがってか、通る家、通る家のベランダから人が顔を覗かせる。

石頭城は、岩の上にある村と、岩を取りかこむ斜面にある村とに分かれている。斜面の村を抜けると、村の中心にある広場に出た。
広場は、小さいながら穏やかな空気が流れている。大人から子供まで、自由におしゃべりをしたり、遊んだりしていた。

石頭城の子供たちは、はにかみ屋さんだけれど、驚くほど人懐こい。
カメラを向けると、ガキ大将っぽい男の子がサッと赤い何かの蓋を口にくわえ、ポーズを決めてくれた。

広場を挟んで向かいには、あの巨岩があり「石頭城」という扁額の掛けられた門に向かって、細い階段が伸びていた。
岩の上にある村に上がるための、唯一の道だという。

荷を積んだ馬が後からついてくる

門をくぐると、もうそこは岩の上。
足元も周囲を囲う壁も、全てごつごつとした岩で、頭上にも剥きだしの岩が張りだしている。岩の予想以上の巨大さに圧倒される。
振りかえると、門の向こうに斜面の村々の赤白の壁と、黒い屋根が見えた。

巨大な岩の周囲はぐるりとレンガの壁で囲まれている。
あちこちに設置された窓から、山の斜面が覗けた。
かなり歴史の古い村のようで、レンガのあちこちが崩落してしまっているが、残っている部分はいかにも頑丈そうな造りをしている。
巨大岩とあいまって「堅固」な守りに固められた村、という気がした。

道は狭く、家屋がひしめきあうように建てられている。
家々の壁にも「石」が用いられているが、全て、土台になっている巨大岩から削りだしたものらしい。

「すごい! すごい!」と一歩歩くごとに感動してしまう。
村の家屋を見ているだけで、その歴史の深さと重みが伝わってくるのだ。
2004年当時、少しずつ観光客が訪れるようになったらしいが、それでも「観光地」とは言えない。ここにたどりつくまでの舗装されていない道はもちろん、村も整備されておらず、宿泊施設も斜面の村に一軒あるだけだ。
正真正銘の古村。田舎好きの私は、大興奮だ。

見事な石積みの壁。使われなくなった籠も材料として使われている

狭い道のため、声がよく通るらしい。感動しきりな声を聞きつけてか、ベランダから次々と満面の笑顔をたたえた村人たちが顔を出す。
うるさくしてごめんなさい、なんて発想も浮かばないぐらいに、心地のよい笑顔を向けてくれ、こちらもいっそう笑顔になってしまう。

納西族のおばあちゃんが、大きな草束を抱えて歩いている
上半分があいた門扉
家畜が逃げないようになっているのだろうか
見事に積まれた煉瓦の家 煮炊きの煙を見ると郷愁にかられる

土台の岩が剥き出しになった、村の坂道。
長い間、風雨と村人の足裏に磨かれてきたのだろう、岩はかなり滑りやすい。

岩の坂道を降りると、村の一番奥にある裏門に出た。
どうやってこの岩を降りたのか、あるいはこれから登るのか、馬が数頭、所在なげに繋がれていた。

門を出ると、深い崖の向こうに金沙江の流れが見えた。
川幅はかなり広く、崖の上から覗きこむと落ちそうな錯覚に襲われる。
門の周囲には道らしきものはなく、何のためにある門なのか首を傾げてしまう。門脇には馬の飼い主らしい村人が数人、地面に腰をかけて、休んでいた。軽く挨拶をすると、笑顔が返ってくる。

裏門を離れ、ふたたび岩の斜面を登り、村まで戻る。
路地を覗くと、急勾配の坂の下に、先ほどの金沙江が見え隠れしていた。足を滑らせでもしたら、そのまま川まで転がり落ちてゆきそうな坂だ。

ここで村のおばあちゃんと出会い、ちょっとお喋りをした。しかし中国語の喋れない、純然たる納西族だったようで、北京後がまったく通じない。
そのうち笑いながら、おばあちゃんが「うにゃらら」と言ったので、話の流れ的に「こんにちは」と言っているのだと判断する。
私たちは「納西族の言葉を覚えたぞ!」と大喜びして、おばあちゃんと別れたあと、村で出会った子供たちに「うにゃらら!」と手を振った。
なぜか大爆笑される。

暗くなってきたので、その日の散策はこれにて終了。
私たちはここまで乗せてきてくれたトラックの運転手の家にお邪魔することになった。ちょうど季節なのか、村のあちこちで黄金色のとうもろこしが干されている。

その日の夜は、家の方が美味しい手料理と、ご主人が自ら作ったという白酒(パイチウ)をふるまってくれた。
白酒はなかなかキツく、ご主人に度数を訊ねると、「40度ぐらいかなあ?」と曖昧に答えてくる。
その後、息子さんが部屋に入ってきて、「50度ぐらいだろ」とつっこみを入れていたが、私たちは「これは60度はあるだろ」とグラグラする頭を抱えた。

夕食後、星が見えるかと思って、ふたたびあの広場を訪ねた。
すると真っ暗にも関わらず、広場には大人たちが集まっていた。なにか祭でもあるのかと思ったが、ただ普通にお喋りを楽しんでいるだけらしい。
昼間と違って、子供たちはもういない。一人の女性を囲って、男性たちが賑やかに話をしていたりするところを見ると、もしかしたら大人たちの、ちょっとした恋の駆け引きの場であったりするのかもしれない。

残念ながら星は見えず、私たちもそれぞれ広場で休んでいると、ひとりの男性が話しかけてきた。彼は標準語が喋れるらしく、私たちとの会話をほかの村人たちに翻訳してくれる。
私たちは先ほどおばあちゃんに聞いた言葉の意味を尋ねてみることにした。

「うにゃららって、なんですか? ニーハオの意味?」
「いや、『分からない』って意味だよ」

その途端、私たちも大笑いしてしまった。
つまり、先ほどのおばあちゃんは、わいわいと標準語で話しかけてくる私たちに困りはて、必死に「分からないよ」と訴えていたのだ。
そうとは知らず、私たちは子供に、満面の笑顔で「分からないよー!」と挨拶をしていたのだ。子供が大爆笑した意味が、ようやく分かった。「恥ずかしい!」と一同赤面する。

もう少しおしゃべりした後、帰路につく。途中、裸電球の小さな明かりの下、娯楽場のようなところで、傾いた台でビリヤードをする人びとを見かけた。こうした地方の村では珍しく、石頭城の人びとは夜も遅くまで遊ぶ習慣があるようだ。
長旅に疲れた私たちは、一足早く、鼠の糞だらけのベッドで眠りについた。

翌朝、朝食を食べたあと、家のご主人に石頭城を案内してもらった。
前日、斜面の村を下りるとき、旅の仲間が「岩の上に見張り台みたいなのがある」と言っていたのだが、そのことを訊ねると「案内しよう」と言ってくれたのだ。

前日には見つけられなかった路地を上っていったところに、その見張り台らしきものはあった。面積はかなり広く、岩の一番頂上にあるため、周囲の山々や金沙江を一望できる。
ご主人に由来を聞くと、「昔、この石頭城が周辺の地域を治めていたころ、王さまが作った見張り台だよ」と教えてくれる。

「昔はこの銃窓(写真の壁に穿たれた三角形の穴)から、石頭城にやってきた敵をバンッと撃ったものさ。四人ぐらいやってきてね、何人かは逃げたが、二人は撃ち殺してやったよ」

………ん?
今さらりと、撃ち殺した、とおっしゃいましたか?

昔っていつの話だろう!? 仰天するが、おしゃべり好きなご主人の話はあっという間に流れに流れていき、真相を聞く機会は永遠に失われた。残念。

だが、話を聞いてみて、なるほど、石頭城の堅固な印象は間違っていなかったとわかる。
昔、ここは周囲一帯の地域を治める、支配者のいる町だったのだ。頑丈な岩の上に村が建っているのは、外敵から身を守るため。この岩の村は、難攻不落の天然要塞だったのである。

のちのち自分で調べた結果、確かにこの村はかつて「防衛の要」として栄えていたようだ。岩の一つ一つには、歴史と悠久の時が刻まれていたのだ。

見張り台は二箇所に分かれていた。広い見張り台が山々の見張り担当なら、こちらは金沙江の担当といったところか。

何て美しい村なのだろうか

見張り台を後にし、私たちはふたたび村を散策する。
どこを撮っても、絵になる。

村から見える、周囲の光景

いよいよ石頭城を出立する時が来た。
最後に、家のご主人が、納西族が客をもてなす時に出す「バター茶」を出してくれる。蔵族(チベット族)と同じ風習だ。
じつはこの後、私はこのバター茶に何度となく苦しめられることになるのだが、これが人生初のバター茶だった。
この味をなににたとえたらいいだろう。溶かしたバターをがぶ呑みしていると言えば、通じるだろうか。
ともかく……ともかく……ものすごく頑張らなければ、飲めない代物なのだ。
もちろん、もてなしの茶だ。必死に飲んだ。必死に飲むと、ご主人は嬉しそうに、もう一杯注ぐ。泣き笑いながら、さらに飲む。
この後、斜面の村を三十分かけて登山したのだが、あと一歩で吐くところだった。

お世話になったご主人に別れを告げ、私たちはトラックの運転手(ご主人の息子)が待つ斜面上の駐車場に向かうため、教わった道をどんどん登っていった。
振りかえると、石頭城の巨岩が私たちを見送っていた。

さて、問題は帰り道だ。写真がいっさい残っていないのだが、冒険具合でいったら、帰り道のほうがすごかった。

まず、帰り路のぬかるみがとんでもなかった。何度もタイヤが泥にはまり、車をおりては押すのを手伝った。それを町に到着するまでの数時間、何度も繰りかえすことになる。タイヤにチェーンをつけるのを手伝ったり、長い距離を自力で歩いたり……ともかく大変な道のりだった。

しかもトラックには前日以上にたくさんの人が乗った。イスでない場所にも人が座るという、説明不可能な満員状態だ。足もろくに動かせないまま、町まではほぼ半日かかった。最後の方は「お尻が……お尻が痛い……足が……つる……」とほとんど半泣きだった。
なぜ、そんなに人が乗っていたかというと、途中で山羊を売りに町へゆく人たちが乗車したからだ。
彼らの乗車によって、私たちも「山羊追い」を手伝わされることとなった。山羊をトラックの荷台に追いこむため、野山を駆けめぐって山羊を追う。山羊は言うことを聞かず、メェメェと逃走。結局、山羊がトラックに乗った時には、一時間半が経過していた。

その後も、発車したトラックの荷台から山羊が落下するも、綱が柵にひっかかって首吊り状態になってしまったりと、大変な騒ぎになった。
車に乗りきれなかった山羊使いは、山羊と一緒に荷台に乗ったり、首吊り山羊を救出したりと大忙しだ。

「なんていう旅だろう!」

疲れる。けれど、途方もなくワクワクする。
このときの旅は、まだ始まったばかりだった。だが、私たちは早くも、この旅が刺激たっぷりの珍道中になることを予期していたのだった。

この後、チベット族の「シャングリラ」や、雲南省最高峰の山「梅里雪山」を有する「徳欽」、そして「チベット自治区」の辺境を巡ることになるのだが、その壮大な旅の物語は、またいずれ。

休憩で寄った村にいた仔猫ちゃん

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