ぼく/ぼくらの言語ゲーム

君はそうなんだよ。

と人から言われると、たちまち「確かにそうかもしれない」と思い込んでしまう事もあれば「そんな訳ないじゃないか!」と反発し受容できない事もあるだろう。

しかし、時間が経つと「そうだったかも...」と収斂してしまう事の方が多いような気もする。

それは言葉を吐く彼等の「呪い/祈り」であり、“そうであって欲しい”という態度の表れ、言語ゲームである。奇しくも、呪いや祈りというものは得てして届いてしまうのだ。

ここでは「呪い/祈り」についてこう定義する事にしよう。
①呪い-他者が悪意を持って、その人をその方向に仕向ける事で利益を得て利用とする願い。またそれを受けとった時に嫌悪してしまう物。

②祈り-他者が害意無く、貴方に、そうだよね、そうであって欲しいと願う事。受け取る際に嫌悪しない事もあれば、そこに喜びすらある可能性を孕む物。だが押し付けられていると感じれば嫌悪してしまう。

人は追い詰められている時ほど、誰かの中に悪魔を見てしまう生き物だ。平静でない人に呪いと祈りの区別などつかない。そうではないか?

呪いと祈りの差など紙一重であるし、そこの違いなどは最早どうでも良いのだ。問題は“呪い”を受け取ると生体的に人は怒り、嫌悪を露わにしてしまう事がある。

この瞬間に自らの平静を保ち、どれだけ穏やかにその人の言葉を最大限に受け取れるかがコミュニケーションの肝である。

何かを訴えようとしている人ほど、伝えたいのに「何故か語らない/無意識の隠蔽」を持っているように思える。
その違和にこそ、その人が真に伝えたい事が眠っているのだ。それこそが、“本当はこれが僕の痛みなんだ”という態度の表れ、傷付いた僕らの言語ゲームなのである。

誰かの“呪い”に動揺し、怒りを露わにすればたちまち彼等の言語ゲームに支配されてしまう。君はその違和を見落としてしまうのだ。

数十年、臨床心理士をされている方の著書のド頭にはこのような一文があった。

「まず、人の心など分かりようがありません」

そうなのだ。だからこそ注意深く、貴方の言葉に耳を、心を傾けて聴き取らなければいけない。
貴方が何を“語らないか”までも見つめなければいけない。

同時に僕自身はこれまで無意識に何を”語らなかった“のかを考える。
そこに僕の痛みを見つけるヒントがあるのかもしれない。

そして、自らに慢心せず、相手の痛みを分かろうと尽力し、心を見つめようと努力する事。

それがきっと人を愛する事なのだ。誰かの“呪い”や“祈り”をこの身に引き受け、穏やかに貴方の痛みに寄り添える人になりたいものだと日々思う。

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