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どうにかしてくれ(伝奇集を読みました)

 こんにちは。僕の後輩が伝奇集を読んでいたような気がして、僕もそれを見習って伝奇集を読む事にしました(勿論、当の後輩からは「読書家ぶっていて滑稽ですね。」と窘められました)。

 それでなんとか読み終えたのですが、非常に難解な作品でした。後輩はよくこんなの読んでたな。いつもならネットに転がってる読書家さんたちのブログをいくつか読んで「へ〜」となって終わるところなのですが、それではあまりにもったいない作品なので、書評を……いや、そんな高等な物ではなく、せいぜい読書感想文程度を物すことを、なんとか検討してみようと思います。

伝奇集とは

 そもそも『伝奇集』という本は、アルゼンチンの作家J.L.ボルヘス作の『八岐の園』と『工匠集』という作品群を併せた(プロローグを除いた、それぞれ八篇と九篇からなる)十七篇の短編集です。前半が『八岐の園』、後半が『工匠集』になっています。
 全体的に難しい内容なのですが、前半が特に難解で、存在しない本の書評を主としています。
 なぜこんな形態を取ったのかというと、それは、長い作家人生の中で一度も長編小説を書かなかったボルヘスの、ものぐさな特質とも関係しているのでしょう。
 事実、『八岐の園』のプロローグには、ボルヘスを長編アンチたらしめる一節があります。

長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ。

出典:J.L.ボルヘス/鼓直 訳『伝奇集』岩波文庫

カッケ〜。
つまりは、「長編書くのはしんどいから引用したいけど、それすらめんどくさいから架空の本から引用するぞ。」ということ。
 この、小説家としては怠惰とも言える姿勢が、ボルヘス独自の、茹だるような夢と迷宮の世界を作りあげたんだろうな、きっと。

八岐の園

トレーン、ウクバール、オルビス・ティルティウス

 最初からかなり難しいです。大まかな内容としては、語り手が謎のインテリ秘密結社が作った「トレーン」という架空の宇宙観の内容を収めた百科事典を発見し、いつの間にかそれが実際にあるものとして現実に侵食してきた、みたいな感じ。メタフィクションですね。そしてその百科事典の名前が『トレーン百科事典』で、この短編で紹介されている本になります。全四十巻。
 このトレーンの宇宙観で重要なのが、「物事は観測されることによって初めて存在する」ということ。つまり、古代遺跡を求めて発掘作業するのではなく、発掘作業を行うから古代遺跡が出土する。トレーンの宇宙では、望めば、そのものを作り出せるらしいです。すげー。
こんな感じでトレーンの説明とそれに係る現実への影響が、虚実入り混った概念と共に紹介されていて、正直結構な割合で何書いてるか分かりません。
 しかし、「トレーンが現実に侵食してきている」という点はとても面白いと感じます。あまりに精密に作り込まれた架空の宇宙観は、それが始めからそうであったかのように振る舞うことを許し、望んだものを創り出せるトレーンの宇宙を認めれば、その表出を止めることはできません。
 この短編の語り手(おそらくボルヘスか、それに限りなく近い立場の人物)は、トレーンを発見した側の人間のため、それが架空のものだと気づいていますが、かつての現実が忘れ去られていくことを止めることはできません。この語り手はそれを「気にしない」として、今までの生活を続けることによるささやかな抵抗を望みます。僕たちは同じように気にせずにいられるでしょうか。いや、「気にしない」というよりはむしろ、「気づかない」か。巷で話される著名人のエピソードトークの真偽を測れないように、あまりに精密な嘘は、現実として振る舞っていてもなんらおかしくありません。
 そして、この作品がメタフィクションたる所以が、「このテキストはトレーンに侵食された世界で書かれたものである」ということ。つまり、一見観測者側のテキストであるように見えつつも、侵食を止められていない現状、この作品の内容が決してトレーンによって歪められていないとは言えないのです。ボルヘスが書いたように思えるこの文章が、全く関係のない第三者がトレーン宇宙の中で作り出したものである可能性を、誰も否定できません。
 まさに複雑怪奇。架空のモノだと思っていたものがいきなりこちら側の世界に手を伸ばしてくる感覚こそ、この作品に限らない『伝奇集』全体を通しての魅力と言えます。

P.S「ジョジョ一部の主人公の名前がジョナサンなのは、荒木飛呂彦がファミレス「ジョナサン」で打ち合わせをしていたから」みたいな話を聞いたことがあります。どうやら嘘のようですが、それも人伝で本当に嘘かは分からないし、もちろん真実と思ったままの人もいるわけで、どんな架空も人の営みの込み入ったところにいけば、真実となり得る可能性を秘めているのでしょうか。これに関してはどうでもいいけど。


アル・ムターシムを求めて

 ガチで分からん。
 多分、『アル・ムターシムを求めて』という物語が初めて書かれてから、同じ題で様々な改変がされてきたものの、新しいものはただのアレゴリーに堕していてどうだかなぁ。みたいな内容です。
 僕は怪奇小説というジャンルに明るくないのでわかりませんが、これこそ複雑怪奇たるボルヘスの世界観を体現しているのではないでしょうか。
 正直理解度が足りてないからフワッとしたことしか言えないし、『アル・ムターシを求めて』の輪郭をなぞるようなこの作品も何となくフワッとしたもののような気がするし、そういうものとして楽しむことにしました。
「こうなんじゃない?」という意見があれば教えてください。
『伝奇集』の作品群の中では最初に書かれたようです。


『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール

 『ドン・キホーテ』を知っている方なら首を傾げるであろう題名です(言うて俺も名前と大まかな内容しか知らんけど)。
 何故なら、『ドン・キホーテ』はピエール・メナールではなく、ミゲル・デ・セルバンデスの作品だからです。
 「いやいや、この『ドン・キホーテ』ってパロっただけの別もんなんじゃないの?w」と思われるかもしれませんが、なんとこのピエール・メナール、正真正銘『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』という物語を一言一句違わず再現したらしいです。
 しかも、その手法が盗作や転写ではなく、ましてやミゲル・セルバンデスになりきるといった———いわば比較的簡単なものではなく、ピエール・メナールという一小説家のモノとして、『ドン・キホーテ』を書き切ったというから驚きです。
 この短編の面白いところが、ピエール何某の『ドン・キホーテ』と同じものが、我々も読めるという点です。しかし、語り手は二つの作品の全く同じ箇所を取り上げて、前者と後者のテキストの違いがまるで明白かのように語ります。
 これはつまり、「作品の印象には、作品自体の歴史や作者の歴史も付随する」ということなのでしょう。あまり作者論に偏った読み方は好みではないのですが、これには同意します。
だって、俺が「血糖値高すぎて横転w」とツイートするのと、乗っていた自動車が横転したことのあるフォロワーが「血糖値高すぎて横転w」とツイートするのでは、印象が全然違いますからね。俺そもそも血糖値高くないけど。
 「蟹工船に乗ったことのない小林多喜二が書いた『蟹工船』」みたいなフレーズがTwitterで一時期流行ったりもしましたが、それもこの短編と同じで、読み手が求める歴史と実際のコンテクストのギャップだったりするのでしょうか。
 俺は、小説には虚構があって然るべきだと考えているのでそこまで気にしませんが、やっぱり説得力が違うのかな〜。「小説は作者が体験したことしか書けない」という言説は、とても窮屈で退屈なものに思えますが。たとえ虚構だったとしても、重要なのはリアリティ(それっぽさや納得感、と言い換えても良い)じゃない?

円環の廃墟

 八岐の園の中だとこの『円環の廃墟』が一番好きです。逆に、後輩はこの作品が一番嫌いっぽいです。理由は何となくわかりますが。
 内容としては、神殿の廃墟に迎えられたとある魔術師の男が、夢の中で一人の人間を創造することを試みるといったものです。これ以降も割とあるのですが、架空の本の書評ではない短編の一つです。
 俗っぽい言い方をすると、無限ループモノです。この男は夢の中で人間を完成させるのですが、最期には自身もまた誰かの夢であったと悟ります。

彼ははためく炎に向かって進んだ。炎はその肉を噛むどころか、それを愛撫した。熱も燃焼も生ずることなく彼をつつんだ。安らぎと屈辱と恐怖を感じながら彼は、おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれの夢を見ているのだと悟った。

出典:J.L.ボルヘス/鼓直 訳『伝奇集』岩波文庫

 彼の作り出した人間は「炎」によってその存在が現実に認められましたが、それは彼自身も同じでした。
 俺はこの短編を、「創造という行為についての寓意」だと解釈しました。廃墟で繰り返される生と死の円環は、そのままキャラクターを創造することと重なります。小説家でありながらこれを書き上げたボルヘスは、「私はの誰かの夢の中に存在しているのだ」と宣言したようなものではないでしょうか。
 この矛盾していて迷宮のような構成の文章が、形而上的ですらある神秘的な文体で書かれているところも『円環の廃墟』の魅力です(このnoteで初めて文体に言及したな)。
 そして、この短編について語るに際し、俺には言及せねばならない存在がいます。
 それは、俺の「後輩」です。
『伝奇集』を読み、note冒頭で俺を嗜めていたのは、存在しない架空の後輩。俺の夢の表出でしかありません。『伝奇集』とは全く関係ありませんが、今まで、俺はこの「後輩」が、まるで実在しているかのように振る舞ってきました。

 「後輩」を「空想上のもの」と再定義することは、「後輩」という人格を認めないということに等しい……と俺は考えます。無論、これからも「後輩」は存在し続けますが、それでも、もう一度その実在性について考えざるを得ませんでした。『円環の廃墟』には、それだけの強烈なメタフィクションの力が込められています。
 『トレーン、ウクバール、オルビス・ティルティウス』の項で語ったように、ボルヘスはこの小説の持つ力を以て、読者をメタフィクションの土俵に引っ張り出したように思います。繰り返すようですが、俺は『円環の廃墟』の、まさに「怪奇」と言った振る舞いが、八岐の園の中では一番好きです。


 体力が無くなったのでここまでにしま〜〜〜す!!!
前半は架空の本の書評が多いですが、「記憶の人、フネス」や「死とコンパス」など、エンターテインメント色の強い作品もありますので、皆さんは是非一度『伝奇集』を手に取ってみてください。

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