見出し画像

そういうこともあるよね

想いを綴るということは、悲喜交々の人の世において、快不快のどちらの動機からもあり得ることである。俺はこの文章を日々の不快を解消せんとして綴っているのであるが、三大欲求が己の身を蝕み始めている今日この頃、三大欲求とは、人間が獣である証に他ならないと思い始めた。机に肘をつき、拳で重い頭を支えて、まるで理知的な人間かのように振る舞うものの、その実、欲望渦巻く脳漿に浸されたプールのような頭では、人間的な活動を営むこともままならない。




ふと、頭の中に景色が浮かび上がる。
そこは、皆が待ちに待ったセレモニー。荘厳な雰囲気の中で、舞台に立っている人間が喋り出すのを、眩暈がするような数の人々が待ち侘びている。私は、そこに参列する有象無象の一人。誰も、この場の私には意識を向けていない。会場は、シーンと静まり返っている。そこで私は、今までにない大声で叫び声を上げるのだ。

「ウわああああぁぁぁぁぁあああぁぁァぁぁァァァァァァ!!!!!!」

「が、あああ、あ、あ、あ、ぐわっがぁぁぁぁぁぁぁぁ…………。」

眩暈がするような数の人々が、俺のことを見るだろう。こいつはなんだ、狂人か、という無数の視線が俺一人の身体の隅々、頭頂部から両足の裏、肛門から毛穴の一つ一つに至るまでに注がれる。
このシチュエーションに限らず、俺個人にのみ作用する廉価版エスカトロジーが度々頭の中に現れては、消える。

これを真に実行した人間が「狂人」というレッテルを貼られるのだろうな、と思う。他にも、通過しようとする電車に手を伸ばしてみたり、カーブの直前でアクセルをベタ踏みしようとしてみたりと、俺を終わらせようする意思は、あらゆるところに潜んでいる。


肉欲も、俺を終わらせようとする要素の一つである。潤った目に柔らかそうな頬。しなやかな躯体に緩やかな凹凸を湛え、丁寧に梳かれた髪の毛の先からは甘い匂いがする。存在を構成する艶やかなその一つ一つが、俺を狂わせる。持て余したそれは、強烈な背徳感でもって、理性を覆い隠さんと手を伸ばし、短い生の中で培ってきた「規範」や「倫理」に牙を剥く。いや、そもそも規範や倫理とはなんなのだ?
少し前に気づいたが、俺は、人間そのものが少し嫌いなのかもしれない(かといって人の手無しでは生きることはできないが!)。
「規範」や「倫理」はこの感情に爪を突き立てたが、俺は、気にしないことにした。俺は俺の心に従うし、必要なら、人だって殺してやろう。
それらを口を酸っぱくして説くものは、きっと死ぬまで折の中だろう。


「規範」、そして「倫理」は余り意識しないことにしたが、かと言って理性を放棄すれば、それは獣となんら変わらない。今でこそ人間としてのプライドが欲による身体の占領を許していないが、しかし、ツラのいい女なんかが通りがかると、思わず目で追ってしまう。
思い出されるのは田山花袋の「少女病」でのこと。杉田古城という男の最期。可憐な少女に目も心に奪われた彼は、見ず知らずの他人に押されて電車から落っこちて死んでしまう。肉欲に支配された者の末路とは、まさにあれではなかろうかと、考えずにはいられない。


規範や倫理からの支配から逃れきっていないこの体は恥を拒否するが、その為に死んでいては、元も子もない。俺は絶対に死にたくない。より良い生活への渇望が、体を突き動かす。俺の世界の中では、いけ好かない奴らは俺より先に死ぬし、生きていたとしても、俺より不幸な目に遭っている。少なくとも奴らが生きているうちは、俺は絶対に死なない。



俺は一貫性に恋をしている。「ハイパーインフレーション」に登場する欲深い商人グレシャムのような、強烈な一貫性を、俺は望む。しかし、それは呪いでもある。一貫性など、人間が完遂できるはずはないというのは、ハナから分かっていると思う。「一貫性を求める」ということは、容易に認知的不協和を引き起こす。
なので俺は、「よりよい生活を送る」という点に関してだけ一貫性を持つと決めた。ひいては、確固たる「芯」を求めると。そうだ、重要なのは「芯」である。他者からダブルスタンダードに見えようとも、俺自身が真っ直ぐであることが分かれば、それでいい。俺という人間が持つ固有の価値基準を設定することが、これからの長い人生において急務であると感ぜられた。

けれど、俺はニヒリストではない。ラスコーリニコフのように、自分を大事を為すべき人間だと信じ、しらみのような老婆の頭蓋を叩き割ったりすることはないだろう(少なくとも、今のところは)。
前述した「固有の価値基準」とやらも、結局のところは、現代人の頭の中で共有されている常識が基になっているのだから、真に現代の「規範」や「倫理」を破戒することはできないし、そういう機能もない。そして、能動的に法律を破ることもないだろう。「気にしない」というのは、あくまで意思表示に過ぎないのかもしれない。


欲で茹だった頭で考えたことを滔々と書き殴り、ストレスの解消を測ったが、未だ考えることが多い。
イカれた自律神経に支配されていた高校の時に比べれば、随分と充実した生活を送っている。母はまだ話が通じるようになったし、何を食っても美味く感じる。行動力も増え、人を恐れなくなり、出会いを大事にするようになった。
父から連絡が来なくなってしばらく経つが、まだ母のことが好きなのだろうか。
趣味を持たない祖母は、寄る年並みに絶望し何かにつけ毒を吐いている。
癇に障ることは以前より増えたが、その分楽しいことも増えた。
好きな女がいたはずだが、今はもうどうか分からない。

どこか変わったつもりでいるが、俺の心はまだ、幾度となく後悔した高校時代にあるのかもしれない。いや、そもそも人は変わらないのだろう。変わったと周りに感じさせる人間は、ハナからそういう気質が合ったというだけの話だ。
これは決して諦観ではない。
そういう気質があるかどうかなど分かるわけはないのだから、どちらにせよ努力するしかない。それでもし、変わることができなかったのなら……………
「やはり駄目だったか」といって、笑うことができれば、それで良い。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?