私の愛しの時計さん
コーヒーの香りで目が覚めた。くあ、とあくびをし、重たいまぶたを押し上げて、幾度かまばたきして閉じる。
「おはよう、お寝坊さん」
「どうして私が起きたって分かったの?」
「変なことを聞くね、きみは今あくびをした。エビデンスは以上だ」
耳元にそっとおはようのキスをして、コーヒーの香りが近くなったのでおそらく片手にマグを握っているのだろう彼が言う。お寝坊さん、と。
今何時だろう。と思ったけれど寝室にはテレビがないので時間を確認するすべがない。仕方がないので、私の愛しの時計さんに時刻を尋ねる。
「ヘイダーリン、今何時?」
「俺をAIスピーカーみたいに使うんじゃないよ。九時過ぎ」
「あららぁ、たしかに寝坊だわ」
大げさに驚いて見せたところで、私はむくりと起き上がる。愛しの時計さんが寝癖でぼさぼさの髪の毛を軽く梳いてくれながらキスをする。
顔中に気障に降ってくるそれにいちいち笑って応じながら、最後に唇に落ちたそれに舌で舐めることで応えた。
「さて、今日は何をする?」
「と言いますと?」
「せっかく三連休の中日なんだから、何かしたくない?」
「うーん、そおねえ」
考えるふりをしながら答えは実は決まっているので、口元が綻んでしまう。そんな私の表情を見てか、彼は黙って手の甲に指を滑らせて私が決めるのを待っているようだ。
私が考えているうちに、彼の節の目立つ太い指は手の甲旅行を終えて、手首へと遠征し、そしててのひらまで戻ってきて、やわらかな感触を楽しんでいる。
さっき、ことん、と音がしたのでたぶん、彼は私がよく頭をぶつけるヘッドボードにコーヒーの入ったマグを置いたのだ。
彼に捕らわれていないほうの手で、胸元まである長い髪の毛を梳きながら、言う。
「今日は、二度寝をしようと思うの」
「せっかくの休日なのに」
「二度寝って休日しかできないわ」
「そりゃそうだが」
彼が唇をへの字に曲げているのが容易に想像できて、おかしくなって笑ってしまう。
私は、寝られるなら一日中寝ていたいくらいベッドのことを彼と同じくらいかそれ以上に愛しているけど、彼は実はそうではない。同じ気持ちでないことがとても残念だ。
「ゆっくりショッピングを楽しむとか……そうだ、角の喫茶店で少し遅いモーニングはどう? あそこのコーヒーは最高に……」
言いかけて、彼が口をつぐむ。そう、分かったのだ、思い出したのだ、自分がたった今コーヒーを飲んでいるところだったことを。
私の手元でいたずらしていた指を捕まえて握り、口元に持ってくる。
「残念だったわねえ……」
「いや、コーヒーは健康にいいから一日何杯飲んでもいいんだ」
「減らず口だわあ」
どうにかして私をベッドから引きずり下ろしたいらしい。愛する寝具との仲を引き裂こうとするなんて、ひどい人。
「だからじゃないか」
唇を尖らせてそう抗議すると、だからじゃないか、と分かったような口調で言われる。
何が、だから?
「きみが俺以外の男といちゃいちゃしているのが、きみの愛しの時計さんは耐えられないわけだ」
「あららぁ、ベッドは男性だったの?」
「なぜならイタリア語でベッドは男性名詞だからね」
「やだあ……」
気心知れた女友達だとばかり思っていたのに、そうだったのね。
「ちなみに時計は?」
「時計も男性名詞」
「フーン。じゃあ、あなたのことこれから時計さんって呼んであげる」
「時計とベッドはどっちが好き?」
「ベッドは内緒話と添い寝しかできないけど、時計は料理も洗濯も掃除もできるし時間も分かるから、時計にしてあげる」
「やった」
彼が私の身体を抱き、ふわりと持ち上げた。首に手を回してバランスを取りながら、私は抗議する。
「二度寝するって言ったわ」
「それは来週末の楽しみに取っておこう」
「もう! ……ねえ、AIスピーカーは男性?」
「……きみ、僕のことをなんだと思ってるの?」
「恋人」
「そういうとこ」