バブルの頃#42:初めての西ドイツ

1988年2月24日~3月3日
ルフトハンザ、ビジネスクラスでミュンヘン行き。アンカレッジで深夜、うどんを食べた(うどんを食べるのがお約束)。北極熊の剥製があった。
ミュンヘンで降りたときの第一印象、若い女性が皆ブルック・シールズに見えた。

◆面接
1988年2月26日ミュンヘン、バイエリッシャーホフのラウンジ。
前夜は時差と緊張で眠れなかったような気がする。想定された質問の答えを何回もベッドの中で繰り返していた。結局、ヤマははずれた。朝、指定された時間にラウンジへ行った。どこか個室で面接があると思っていた。ラウンジでコーヒーを飲みながら話をした。何人かと、何かしらの会話をした。
「なぜスポーツ業界を選んだか」との質問。
「スポーツ用品は国家が平和でなければなりたたない。自分は平和を愛する。だからスポーツ用品業界を選んだ。」
異業種の業界の話題に、事前に仕入れた情報でハッタリを目一杯。「日本一のブランドにするために、自分はドイツに来た」とか言った。夜になるとドイツの有名なスポーツ選手やらメディア、業界の人たちを集めてパーティが開かれた。テレビカメラが入っていた。会長がテレビカメラを前にして、自分を紹介してくれた。ドイツ語のあふれる会場で、英語でインタビューに応えた。

◆ドイツの感想

1988年3月10日14:00自宅にて。
(1)ドイツ人は背が高い。
(2)清潔。ホテルの部屋はよく掃除されていた。
(3)雪の町なかを、ベンツのタクシーがお尻をふりながら走っていた。
(4)炭酸入りのミネラルウォーターには馴染めなかった。
(5)よく握手をし、笑顔で話をし、過酷な生存競争をしている。
(6)ビールがうまい。

すべてが初めてのことで非常に感動した。なかでもミュンヘンの教会堂に入ったときは驚いた。天井の高さ、室内装飾。町の中に支配階級の存在を感じた。雪がちらついていた、市庁舎のりっぱな建物を横目に一緒に歩いていた体協の先生が「あなたもそう思っているだろうが、並んで歩いているのが女性だったらどんなにいいだろう」といっていた。ロマンチックというのはこのことだろう。若い頃にヨーロッパを見ることはすばらしいことだと思う。よく、テレビドラマで主人公のヒロインがパリに行くとか、ヨーロッパに行くとか口にする。あれは、あこがれではなく、実際日本にはない、歴史の重さ、人間の英知と時間の流れが混ざり合った重厚な雰囲気、空気を吸うためだと思う。
商店は、土曜は13:00閉店、日曜は休業。これは伝統だという。これを破る店主はいない。他人が休んでいるときに姑息な手段で儲けようとはしない。これは長い間にわたり人々が支配者から自由な時間を勝ち取ってきたという民主主義の歴史がそうさせているそうだ。生まれながらにしてあったものではなく、弱い立場の人間が協力し助け合って自由を要求し、多くの犠牲のもとに今日の自由を得た。
ここに日本人が理解できない歴史の重さがある。今回の旅は、ドイツで7年間、柔道の教師をやっていた体協の先生のおかげで勉強になった。昨年9月退職から動きは、自分の人生の転機としてかけがえのないものとなるだろう。あの会社にずっといたら、味わうことのできなかったことを経験した。時差ぼけと過度の緊張でよく眠れなかった。しかし、グローバルな視野をもって、仕事ができるということは、忘れていたものを再び蘇らせてくれそうだ。

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