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『他人の家』 ソン・ウォンピョン

『アーモンド』のソン・ウォンピョンによる短編集『他人の家』から、『四月の雪』を紹介する。


僕と妻は、結婚5年目の若い夫婦。だが冒頭から、妻が離婚を求めて、僕もそれに同意していることがわかる。
喫茶店で離婚話をした2人が帰宅すると、家の前で彼らを待っている一人の外国人女性がいる。民泊アプリを通して、夫婦の元に宿泊することになっていたフィンランド人女性、マリだ。

夫婦の微妙な状況など知る由もないマリは、満面の笑みで韓国観光の計画を語り、大好きな韓国アイドルのコンサートに行くのだと意気込む。

フィンランドでは世界的に有名なサンタクロース村で働いているというマリ。毎日のようにたくさんのカップルや夫婦を目にしている彼女は、カップルが本当に幸せなのかそうでないのか、愛し合っているのかいないのかが分かるという。そしてマリは言う。「私、自信を持って言えるんです。あなたたちは、本当に愛し合っている、ってことを」
離婚を決めている夫婦に対して、確信に満ちたこの言葉。マリの祝福は虚しく宙を漂う。
静かで滑稽で苦い、秀逸な会話シーンである。
そして、この物語を最後まで読むと、このマリの一見能天気な見当違いに見える発言が、また違った意味合いを帯びて見えてくるのだ。

ほがらかなマリの影響で心が上向きになった妻は、もてなし料理の材料を買いにいそいそとスーパーに出かけたり、マリの観光に付き合ったりする。
そんな妻の姿を嬉しく思いつつも、「スーパーで出くわすかもしれない光景のせいで、妻が危険な状況に置かれる」ことを危惧し、「街の風景に妻を刺激するようなものがありはしないか」と心配する僕。
この辺りで読者には2人の問題についてある程度ピンと来るのだが、しかしそれでもその後明らかになる内容はショッキングだ。妻の慟哭は想像に余りある。

そしてマリがアイドルのコンサートに出かけた日、夫婦は気晴らしのため外出することにするのだが、その外出先で、わたしが危惧していた、妻を刺激する光景に出会ってしまう。
帰宅後、再び2人の間に修羅場が生じる。
そして妻が泣き叫んでいるちょうどその時に、マリが帰ってきてしまう。

遠慮してマンションを去るマリと、彼女を追って外に出た僕が、静かに会話する場面が小説のラストシーンだ。
その日、マリはコンサートには行かなかったという。

「・・・会場に行く途中で、雪はもうこれ以上降らないって気づいて。すでに解け始めていましたから。そしたら雪がないところを歩いてみたいと思ったんです。・・・だから、私、ただあてもなく気の向くままに歩いたんです」
マリは軽く笑みを浮かべた。それはどことなく悲しげで、僕がそうさせたような気がして申し訳なくなった。
「もともと私、一月に来るつもりでいましたよね。だけど、それが・・・」
マリは一瞬、口ごもると、ささやくように言った。
「・・・ただ私はあのとき、来ることができなかったんです」
彼女が何度か短く息を吸い、泣くのを堪えていることに僕も気づいた。マリはしばらく呼吸を整えていて、僕はそんな彼女を黙って見守っていた。

語られないが、マリにも何か背負っているものがあるらしいことがわかる。
マリと心がわずかに通い合うことで僕の見る世界に小さな風穴が空く。胸に沁みるラストだ。

同じ経験がなくても、この小説は、読者が持つどこか似たような古い傷を疼かせ、それでいて優しい手でそっと労わる。
客観的な語り口と簡潔な表現は、レイモンド・カーヴァーのような味わいで心地良い。
淡雪のような余韻のある小説だ。

*****

他に、ソウルの住宅事情の悲哀をコミカルに描いた表題作『他人の家』、残酷な近未来を描いて衝撃的な『アリアドネの庭園』、人間の行動の意味という哲学的な問いを掘り下げつつ、感動的なストーリーテリングが素晴らしい『箱の中の男』など。どれも良い作品だった。


ウォンピョンの小説が取り扱うのは、直視するのに気合いがいる、えぐみのある心の問題だ。それらに向き合っていく彼女の真摯な眼差しを尊く思う。
巻末の「作者の言葉」に、そんな彼女の思いが自身の言葉で綴られているので、最後に引用して終わりたいと思う。

怪物(※=大衆)のターゲットにならない方法は、ずっと口をつぐんで意見を言わないことだけだ。世の中の風向きが変わるまで、悲しいことに大多数の人は沈黙で身を守り、不条理から目をそらす。怪物から自らを守るのは仕方がないとしても、自分と他人をじっくり見つめるという行為をなおざりにすることがないようにしよう。そうすれば、自分の宇宙がそうであるように、他人の宇宙の中にも、さまざまな動作原理があるということに気づくことができるから。