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『消失の惑星』 ジュリア・フィリップス

少女の誘拐という不穏な出来事を通奏低音にして、様々な女性達の心の叫びが、息苦しいような旋律を奏でる。
その楽曲のテーマは、人生の喜び、悲しみ、そしてままならなさ。

この小説を大きく特徴づけているのは、その舞台がカムチャツカ半島であるということだろう。
カムチャツカ半島。土地名としては、日本人には耳馴染みのある響きだと思うが、そこがどんな場所であり、どんな人々が暮らしているのか、きちんと知っている人は少ないのではないか。私は恥ずかしながらほとんど知らなかった。

ロシアのほぼ東の果てに位置する半島は、オホーツク海、ベーリング海、太平洋と三方を海に囲まれ、物理的にも心理的にも、隔絶感が大きい。
白人であるロシア人の他に、エウェン、コリヤークなど先住民の人々も多く暮らしているが、ロシア人と先住民族との間には例に漏れず壁と軋轢がある。

そのような半島のある街で、ある夏の日に、11歳と8歳の姉妹が若い男に連れ去られるところから、小説は始まる。
しかし少女達の身に起きたことについては、その誘拐の場面以降、一切展開は書かれない。
続く11の章で語られるのは、11人の女性達の11様の物語だ。

誘拐現場の目撃者、姉妹の母親、またはニュースで事件を知った者達。いずれも事件に近く遠く心を寄せる彼女達同士もまた、互いに直接または間接的に繋がり合っている。
そんな様々な女性達が、それぞれの心に疼きや迷いを抱えながら生きる人生の一コマ一コマを、筆者は丹念に繊細に切り取っていく。

交差する人生模様を俯瞰的に描くという意味で、オリーヴ・キタリッジの世界と少し似ている。
ある章の主人公が別の章で登場するときには、また違った横顔で描かれているというところも、似ているかもしれない。
それでもオリーヴの世界とは全く違う読み味なのは、こちらがより過酷で寂寥感のある世界だからだろうか。

物語に閉塞感が漂うのは、やはりカムチャツカという舞台、北部は雪に閉ざされた、外界との行き来が不自由な地理的環境、そしてソ連崩壊後も古い価値観が色濃い文化的背景によるものだろう。

「メディアはずっとあの事件を報道してるよね。警察も女の子たちの母親もしょっちゅうテレビに出てるから、むかしから知ってるふるさとの人たちより顔を覚えてるくらいだ。でも、じゃあ、三年以上前に失踪したエウェンの女の子はどうなる?誰があの子のことを報道した?いまじゃ話題にさえならない」

女性が同性の恋人と付き合っていれば、彼女がどれだけ聡明だろうと、彼らは警察に通報する。・・・世間が決めたとおりに振る舞わなければ、警戒を怠れば、女たちは標的になる。隙を見せてはいけない。
「あなたは自分を騙して、そうじゃないと信じ込もうとしているだけ。別の事実がほしくてほしくてたまらないのでしょうけど、そんなものは決して手に入らない」

人生と対峙していく女性達の言葉は強く鋭い。

ロシアを書いた作品だが作者はロシア人ではなく、ニュージャージー生まれのアメリカ人。
異国人によって語られる国や文化は、異国人の目を通すからこその表情を纏う。さらに才ある筆で書かれたなら、それはますます陰影に富む表情になる。
私達が、身近な世界そして遠く離れた人々が生きる世界を、より深く多様に理解するために、小説という道具は案外パワーを秘めているかもしれない。
そんなことも考えさせてくれる作品だった。

さて、小説を通して常に進展のない事件として言及され続ける誘拐事件。主人公の女性達は、姉妹の母親も含めて全員が、少女達が生きて見つかる可能性はゼロに近いと考えている。
果たして少女達のその後は、読者の知るところとなるのだろうか。なるとしたらどのような形で。
それはここでは言わないが、最後の数ページではきっと涙がこみ上げることだろう。