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『アサッテの人』 諏訪哲史

読む者の感覚に働きかける奇妙な力を持つ、面白い小説だ。

要するに、私の書きたいのは叔父の話であり、叔父の話とはつまるところポンパを含めた大きな意味での「アサッテ」の話であり、この「アサッテ」が性質上あらゆる「作為」を拒むものであるからには、元に戻って小説自体が破綻せざるをえない木阿弥にたどりつく。

何のことやら意味不明である。
意味不明なのにわけもなく惹かれてしまう。
そしてこの意味不明な文章を、本書を最後まで読んだ後で立ち戻って読むと、くっきりと意味が通ってくるのだから面白い。

語り手である「私」の叔父が、「万事心配無用」という葉書を残して失踪する。後始末のために叔父の住んでいた団地の部屋を訪れた「私」は、そこで叔父の日記を見つける。

この叔父についての話を書きたいのだが、小説という形にしようとするとどうもうまくいかない、と、冒頭から「私」は執筆における苦心と試行錯誤を吐露する。
そして、悪あがきは止して、素材をとにかくそのまま読者の前に投げ出すことにすると宣言する。
言うならばコラージュ的な小説にするということだろうか。

素材とは、叔父の妻朋子さんから語り聞いたことを、彼女の語り口を借りて書いたものや、叔父の日記からの抜粋など。そこに、作者としての「私」の、各草稿についての解説や、この次にこの草稿を置くのはどうなのか、というような構成を練る独り言などが入る。メタ的な作りが面白い。

叔父の「アサッテ」とは何か。ポンパの噴出とは。
読み進めるうちにそれらが解明され、ぐいぐいと引き込まれる。

記述によると、幼少期から苦しんだ吃音が青年期に突然消えたことにより、叔父の世界が傾いたという。(下記は、叔父の日記からの引用となっているもの)

「僕が死にもの狂いで手に入れようとした言葉のリズム、ある一定の波長は、そこへのチューニングが可能となった今、逆に僕をその律の内に緊縛し閉じ込めようとするものだった。」

場の状況とタイミングに合った言葉を発声するという、無意識で行われる通常の言語活動。ずっと不自由だったこの活動が突然可能となったことで、叔父はひどく戸惑い、本能的な嫌悪感が生じた。そう「私」は仮定する。

さらに叔父の日記を紐解くことで解明されるのは、彼の、「恣意」や「定型」への強迫観念だ。
社会の日常を規定する「定式」を疑問視し、そこから瞬時的にでも離反して「アサッテの方角」に身をかわしたい、という叔父の生理的とも言える欲求が形成されていくのが、日記の内容から分かってくる。

「自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して、圧倒的に無関係な位置に至ること。これがあの頃の僕の、「アサッテ男」としての抵抗のすべてだった。」

「予定調和的な文脈をふまえつつ、そこから完全に無関係な位置へ突き抜ける」
「通俗的なものの裏をたえずかきつづける」
そんな「極めて特殊な反骨精神」が結実したのが「アサッテ男」であり、叔父のアサッテの手法が「ポンパ」なのだ。

その後、慣れのせいか、強まる作為性のゆえか、叔父のアサッテが定式化していくという事態が生じる。
定式・作為からの逸脱を図るための行動それ自体が定式・作為となる恐怖が、叔父の精神を追い込み、日記は狂気の相を帯びていく。
そしてその作為への病的な怯えがいつの間にか自分にも伝染していることに「私」は気づく。
冒頭の、執筆に関する奇妙なこだわりやあがきがここに帰結する、その流れが鮮やかだ。


なにかに規定され続けているという意識、「世界に囚われている」という意識が頭の中でどんどん膨らんだとしたら。
そして、その窮屈感、圧迫感にあらがうために瞬発的な軌道逸脱行動を取る癖がつき、その癖もまたいつの間にか定型化し、自らを規定していると感じるようになったとしたら。
絶望的な逃れようのなさである。あまり想像したいものではない。
うっかり自分にもポンパが乗り移ってしまったら大変なので、あまり意識を入れ込みすぎないようにして読んだ。

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