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アーミッシュの赦し

『アーミッシュの赦し』

スティーブン・M. ノルト、デヴィッド・L. ウィーバー‐ザーカー、ドナルド・B. クレイビル

男がアーミッシュの学校を襲撃し、女子生徒数名の命を奪った銃乱射事件。
その事件の痛ましさと同時に世界を驚愕させたのが、犠牲者の家族を含むアーミッシュの人々が、即座に加害者を「赦し」たことだった。

アーミッシュの教えにおける赦しについて、そして赦しと和解とはどのような意味を持つものなのか、事件をきっかけにアメリカ社会でも論議が広がった「アーミッシュの赦し」についてのルポと考察。

もしも自分の大切な人が身勝手な犯罪により命を奪われたら、その加害者、そしてその家族を赦すことなどそう簡単にできるものではないだろう。

だが、この事件の被害者の家族は、事件の翌日には加害者男性(事件時に自殺)の遺族の元を訪れ、自分たちはすでに赦していると伝えている。

またそればかりか彼らは、加害者の家族の辛い境遇を思いやり、精神的物理的な支援まで行なっていた。

心を破壊するような理不尽な仕打ちすら受容させる彼らの強い信仰には一種羨ましさすら感じるが、その行動が心底から自然にされたものだとするならば、人間の精神としてあまりにも何かを欠如しているようにも思ってしまう。

アーミッシュの姿に対する世間の反応の大部分は感動であったが、同時に、全ての悪を赦すことは究極的には運命論に偏った希望のない世界につながるのではという疑問の声も上がったという。

赦しは、怒りと無念さの苦しみから心を解放する薬にもなるだろう。そう考えるならば、赦しは被害者が堂々と選択して良いものだ。

しかしアーミッシュの実践している「赦し」は、被害者の精神的救いというだけではなく、彼らの生き方そのものなのだった。

その根底にあるのが、「主の祈り」。

キリスト教では基本的な祈りのひとつだが、他の宗派に比べ、アーミッシュにおける主の祈りの重要度は際立っている。

神に赦されるために、自分も赦す。それがアーミッシュの人々が子供の頃から教えられ、生涯実践し続ける、神に対する義務なのだという。

シンプルかつ絶対の規範があり、それに心からの信仰と共に服従して人生を捧げること。そこにある絶対の安心感、充足感。

いわゆる聖典というものがなぜ信仰者によって永遠の重要性を持つのか、その理由の一端がここに見える気がする。コーラン。お経。人生や人間について大事なことが書かれているものを拠り所にし、忠実に服従することは、苦難にある時に人の心を救うかもしれない。

もちろんアーミッシュの人々にとっても赦すというのは困難な作業で、闘いの連続だという。また、悲劇の直後に加害者を赦すと表明する彼らは精神的に欠けたものがあるように感じたが、そういうわけでは決してなく、子を失った親の悲しみ、流される涙は、私たちと全く変わりはない。しかし彼らにとって赦すということは、それらを上回る絶対の姿勢なのである。

本書にはその他に、アーミッシュ特有の「シャニング」という仕組み、そしてアーミッシュ社会における秩序と外部社会との共存のあり方についても丁寧に解説されている。賛同する気になるかどうかは別として、彼らの論理は極めて明快だ。

信仰と救いについて、人の心と社会について、考えさせる一冊だった。

(気に入った一節:「神秘のない宗教なんて、車輪のない馬車みたいなものだ」-アーミッシュの工芸家)