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百日紅と城の崎にて。

こちらは百日紅が見頃です。斜向かいのお家のおじいさんとおばあさんが亡くなって、家は売られて植物も全部抜かれて更地になって、今は新しい家が建って新しい家族が住んでいます。

今はもうない白く四角い家はいつも花が咲いていて、小さい木だったけれど百日紅が見事でした。


いつもご夫婦で手入れをしていて、いい庭でした。
写真はその庭があったころの写真です。


今年、百日紅を見つけて何度か撮ってみたけれど、やっぱりこの写真の方が好きなのでこちらを送ります。丸い蕾の硬さと、咲き出た花のふわふわとした優しい柔らかさが好きな花です。

いつかまた好きな木が見つかって撮れるといいな。

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朝4時半の月は明るい。



子どもたち、寝ていると大きくなったなと感慨深いというか時の止まらなさが嬉しいけれどちょっと恐ろしくもあります。


蝉の声が切れ目なく、幾重もの波のよう。

息子と神経衰弱をして、手加減せずにやったらこてんぱんにしてしまって5歳児を泣かせました。大人気ないけど、自分でもびっくりするくらい頭が冴えていて、それを試してみたら面白いくらいカードが取れたのです。反省。

久しぶりに昔の写真を見返したら、自分の撮る癖、みたいなもの、目を留める物の癖がよくわかりました。子供はもちろん最多で、空と水が多い。あとは植物、何か光っているもの。それがわかったからどうかするわけでもないけれど。

学生時代の写真は全然プリントしなくて、スマホも買い替えたり(そもそもガラケー時代)故データも消してしまったりして、ほとんど何も残っていないのがちょっと惜しい気もします。

と言ってもほんの少し残った写真も実家に置きっぱなしで見ることもないので、あんなこんな甘酸っぱい事柄は、全て記憶の中に留めおくくらいでちょうどいいのかもしれません。

定期的にスマホはリセットしたくなってしまうし、日記は燃やすし、アカウント類は消したくなる衝動に駆られます。子供達の写真は、唯一取っておく物でしょう。


木から離れた百日紅の花が、風に流れて金平糖みたいで綺麗でした。

曇天、西陽に凌霄花
白い腹見せて転がる油蝉

図書館への道すがら見た景色。
夏は他の季節よりずっとゆくのが遅く感じます。


夜になって雨が降り始めました。風の温度が下がって心地いい。でもまだ昼の暑さは消せません。

息子と指相撲をしました。小さな親指がそれ自身生き物のように私の指から逃れてゆきました。爪も柔らかで小さな親指。抑えても抑えられても喜んで声を上げて笑います。

志賀直哉の短編、ようやく『城の崎にて』にたどり着きました。
教科書で読んでいたはずなのに、全然印象が変わっていて驚きました。

それは描写だけでなく、城の崎にて は本当に文学として完成されていて、間違いなく抜群に面白い短編だと思いました。

高校生から随分経った、今だから、そう感じているのかもしれないけれど。

この話で、主人公は死を『淋しい』と何度も言います。

祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互いに何の交渉もなく、
ーこんな事が想い浮ぶ。それは淋しいが、それほどに自分を恐怖させない考えだった。

『自分の心には、何かしら死に対する親しみが起っていた』

他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。しかし、それはいかにも静かだった。

生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。

志賀直哉『城の崎にて』




哀しさ、よりも淋しさなのか、まだ失ったことがないからわからないけれど。貴方は、私が死んだら泣きはしないけど淋しくはあると思うって言ってたなと思い出しました。

死への憧れ、恐れ、もあるけれどそれと同じことを生にも感じている。生きていることって、本当はどこか恐ろしく淋しい気がする。

何十年前の人の言葉に触れられて、本がある世界でよかったなと思いつつ眠ります。おやすみなさい。



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