もはやこれは恋。久しぶりのフィルム。
今日は娘の習い事の送り迎え。
習い事の間どこで時間を過ごそうかと考えていたら、写真好きな知人からメッセージ。チャンプカメラで三連休、kodak GOLD200が1280円とのこと。
zfを使うようになってからすっかりフィルムから遠のいていたけれど、あ、そうだ現像していないフィルム1本と、現像無料券があったのだったと思い出して、近くのチャンプカメラに行くことにしました。
いつ撮ったかはもとより、どのカメラで撮ったか、ハーフかフルかすら覚えていない黄色いパトローネ。現像にすぐに出さなかった、ということは『手応えが無かった』ということでもあり、あまり期待せずにお願いしました。
あたり券を使って、スマホ転送代だけかかって700円。
一年半ぶりのチャンプカメラは、少しレイアウトが変わっていて、色んなフィルムやカメラ、レンズ、グッズ、、居るだけでわくわくしてきます。
若い人も年配の人も、日本語ではない言語でフィルムの前で話す人も、みんな同じように真剣で、目の奥がキラキラしていて楽しそう。
フィルム人気の再燃とそれに伴うフィルムの増産のおかげか、フィルムの購入本数制限はなくなっていました。(転売はダメ絶対)
最後に来た時は富士フィルムのポートフォリオレビューアワードの最終選考の後で、もう引き伸ばしをお願いすることは無いのかとちりちりした気持ちでした。
そこから、フィルムで撮るコストよりも、デジタルでたくさん撮れたほうがいいし、すぐに確認できる、仕事にも使えるなどなど考えるようになって、フィルムカメラを持ち歩くことが減りました。
私は、怖かったのだと思います。何のためにも、収入にもならないのに、コストを掛けることを全く厭わずに『撮りたい!!』と走り出したくなるフィルム写真の魔力が。どこまでも沼にハマれる深さが。
友人と会って、ローライを使う姿に潔さを感じました。たくさんの写真を撮るとは対極の、必要な時に必要なだけ撮るスタイル。
私は極力声をかけずに子供を撮るので、動いてしまったり、ぶれたり、目を瞑ってしまったり、フィルム写真には向いていない被写体なんじゃ無いかと思っていました。
それが
現像された写真を見た時、全部薙ぎ倒されていくのを感じました。
ぶれていて、同じ構図も二枚くらいあって、全部で半分もよく撮れていない。
でも、その半分は私がデジタルカメラで百枚撮っても、生み出せないものでした。
笑い声が、そのまま写っているような。
『エモい』で片付けられないものたち。エモいのその奥。
ピントがずれていても、水平が合ってなくても、構図とかそういうのも、全部ぶっ飛ばすくらいの破壊力。
その時を、今ここに留めおくための純粋な装置。
暑さも、湿度も。むわりと香るようで。
そこには『本当』しか写っていませんでした。
動きを止めているのに、動いている。背中を写しているのに、大好き、という感情が溢れている。
色被りとかそういう次元でない、何かを感じます。
撮っていたのは、山小屋に行っていた時のものと、日常のいくつか。
どのレンズかさえ、覚えていません。忘れられて、置かれていたパトローネの中にちゃんと残っていてくれた。忘れていた瞬間を、覚えていてくれた。緑の季節。
特殊でも無く、ふつうもふつうの、コダックゴールド200。そのふつうが、愛おしくて、現像された写真を見た時の『生きててよかった!』を思い出してしまいました。
もはやこれは恋でしょう。
デジタルは、フィルムには成り得ない。
ずっとフィルムでも撮っていたいと、フィルムを買って帰ったのでした。