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わたしを通り過ぎた本/坂田寿子さんの場合

阪急宝塚線、雲雀ケ丘花屋敷駅を降り、山の方へ向かう阪急バスに揺られて5分ほどしたバス停で降りてすぐの一軒家に「po」はあります。2019年12月にオープンしました。お菓子を担当する坂田さんと布小物を担当する松本さんのお二人で営んでいます。今回はお菓子を担当する坂田さんにお話をうかがいました。

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小さい頃から好きだったお菓子づくり

小さい頃から台所が好きで、椅子を抱えて台所にいる母のあとを追いかけていました。だんだんお菓子作りに興味を持ったんですが、家にはオーブンがなかったので『オーブントースターのお菓子づくり』という本を父か母が買ってくれて、中学生くらいのときはお菓子を作っていました。いま振り返るとおいしくはなかったと思うのですが、家族みんなが「おいしい。おいしい。」と言ってくれるのではりきって作っていました。

やすみの日の朝には、家族にホットケーキやピザトーストのオーダーなどを取っていました。ピザトーストだったら「チーズは入れますか?」「ケチャップは入れますか?」と(笑)。作っていたピザトーストは、『こどものりょうりえほん』というこどものための料理本に出ていました。動物がお客さまをおもてなしするというテーマで展開されていてかわいらしく、いろんなお料理が載っていたので順番に作っていました。このシリーズは「日曜日の朝ごはん」「お母さんのいない夜」など5冊で出ていて、ずっと品切れでしたが、数年前に復刻されたみたいです。

高校卒業して、すぐに製菓の学校へ行きたかったけれど、父から「きっと学生生活はたのしいと思うよ。2年間通って、それでも行きたかったら行ってみたら?」と言われたので短大へ行きました。おそらく父は、2年間の間に説得して就職をして欲しかったと思うんですが…。やっぱり製菓の学校へ行きたかったので、「自分でアルバイトをして通うので、行きたい。」と言って短大を出てから製菓専門学校へ行きました。

もう30年くらい前。その頃、日本にあった唯一の製菓専門学校、大阪・阿倍野の辻製菓専門学校に1年通ったんです。学校には、高校を卒業して入学する人ばかりでした。夜間部は大人の人もいたでしょうけれど、昼間は日本に一校しかない製菓の学校ということで北海道から九州まで全国から集まってきた人たちで教室もぎゅうぎゅうでした。わたしのように短大や大学を卒業してから来た人は、一クラス60人-70人の中で5人いたかなという程度でした。

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憧れていたお店で働くことに

働きたいケーキ屋さんがあって、学校へ通っていたのでそこへ行くつもりで就職活動も一つに絞っていました。でもその年は採用がないと言われて…。「ここのチョコレートケーキが大好きで絶対行きたいんです」と何回も電話をして伝えたら「じゃぁ、面接だけしてあげる」と言われたと同時に、アルバイト先だったアフタヌーンティールームから「梅田阪神に新しいお店をオープンするからそこで社員をしませんか」と言われて…。「どうしましょう」と(笑)。

アフタヌーンティールームのスコーンとマフィンがとても好きで、サンドイッチもこんなオシャレになるなんてとずっと憧れていました。「こんな格好いい場所で働けるわけがない」と思っていたのに、アルバイトでアメ村(心斎橋近くのアメリカ村)の三角公園の眼の前にあった心斎橋店で働けることになり、毎日がたのしくて仕方がなかったんです。アルバイトには、週末の土日と学校帰りに週2回ほど行って、ホールとキッチンの両方をやっていました。

結局、ホールとキッチンの両方ができることがたのしかったので、アフタヌーンティールームに行くことにして、散々電話をかけていたケーキ屋さんへは面接も行きませんでした…。

つくることに興味があったけれど、アルバイトのときにホールでのサービスを経験して、お客さんとのかかわりがとてもたのしかった。アフタヌンティールームでは、紅茶をご注文された方にミルクティーかストレートかお聞きしていました。ミルクティーはミルクを先に入れた方が紅茶はおいしくなるので、注文された方には「ミルクを先に入れてもよろしいですか?」と聞くんです。それが特別なことを聞いているみたいだったし、お客さまも「えっ?じゃぁお願いします」と言われて…。ミルクを先に入れて紅茶を注ぐということがとてもうれしかった。水色(すいしょく)を見ながらみなさん笑顔になられるんです。

心斎橋店は、1FにBEAMSが入っていたビルの2Fにあったとても小さな店舗でした。社員として働きはじめて半年後にティールームだけ閉店することが決まっていたので、心斎橋店に勤めてから阪神に異動しました。当時キッチンには男性が多くて、コックさんみたいなお料理経験者ばかりだった。お店のイメージも、もっと黒っぽいイメージで、エプロンも黒やグレーでしたし。

ちょうど心斎橋の店舗で働いてたときにアフタヌーンティリビングで働いていた同期が誕生日に洋書の『Lee Bailey’s COUNTRY WEEKENDS』をプレゼントしてくれました。初めての洋書でした。こんな世界があるんだと視野が広がりました。特に、バスケットを使うコーディネートは新鮮だった。贅沢をしてお肉をたくさん食べた次の日の朝には「Monday Diet lunches」というオシャレなメニューを紹介するなど、暮らしへの提案が素敵だなと思いました。

梅田阪神の店舗はとても忙しかった。お店のフードメニューは充実していました。メニューは、料理経験のあるキッチン担当の男性がしていたので、ドレッシングもベシャメルソースもなにもかも手作りだった。わたしは背が低いので、牛乳などが納品されるときのコンテナの上に立って仕込みをしていました。アイスコーヒーも一日分全部落としていたんです。生クリームの泡立ても全部手立てでした。忙しいときでも全部手立てだったんです。たいへんだったけれど、やりがいがありました。みんなでチームプレーで乗り切ることがたのしかった。

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念願のフードメニューの開発を担当する

わたしは、梅田阪神の店舗のあと、神戸の旧居留地の店舗にキッチン担当として異動になって、その後梅田阪神の店舗に店長として戻りました。それから、宝塚阪急店を店長としてたちあげて、東京本社へ行きました。

サザビーは査定のときにかならず、「この次になにをしたいか」を聞いてくれたので、「商品企画に入りたい」と言っていました。店舗で働きながら、差し込みメニューなどは自分たちでレシピを書いて写真をつけて本社に送るということをやっていると、企画の人が「もうすこしこうしたらいいよ」とアレンジをして送り返してくれました。宝塚阪急の店舗にいるときに、わたしと同じように商品企画に行きたいという同期の女の子と「二人で心斎橋そうごうの店舗のメニューをやってみろ」と言われて二人で考えてプレゼンをしました。全部ではなかったけれどいくつか採用されました。

それからすこしして、商品企画に異動をしました。夢みたいと思っていたけれど、会社の中で魅力的と思っていたところに行けてうれしかった。心斎橋そごう店のメニューを一緒に考えた同期の女の子とわたしが行くまで、パティシエ経験のある男性がひとりでメニューを企画していました。見た目は元水球選手のちゃめっけたっぷりのサーファーおじさんで、センスが良くて繊細な盛りつけをしていました。

当時、本社は表参道の根津美術館の近くにありました。キッチンがなかったので、埼玉にあるお菓子を作る工場へ行って、キッチンとも言えないような従業員が洗い物をする程度の片隅の場所でメニュー開発をしていたんです。調理器具もそろっていなくて気の毒というか…。きっと、かつては各店舗のキッチンの人がメニュー開発もできたので、そこでタタタと開発していたんだと思います。

ある程度買い物をすませて埼玉の工場へ行くけれど、サンドウィッチやパスタやサラダなどに使う外国の食材やパンなどイメージしているものが手に入らないので、「あれが足りない」「これが足りない」となって、だいたい午前中に電話がかかってきた。例えば、シリアルがついているパンを買ってきて欲しいなどのリクエストがあるので、会社の近くにあったスーパーの紀ノ国屋で、買って、電車を乗り継いで埼玉・戸田へ。工場なので駅から遠くて…。当時は携帯電話もなかったので公衆電話から電話をかけて工場長などに車で迎えに来てもらっていました。

会社が大きくなって表参道から千駄ヶ谷へ本社が移転することになり、そのタイミングでフードメニューを開発するチームも使えるキッチンがフード事業部にできました。サーファーおじさんは管理する側になり、メニュー、テイクアウト商品を企画するメンバーは6人全員女性になった。

その後、お茶を担当されていた方が退職をして、わたしがお茶も担当することになり、お茶の勉強をする中で、お茶の本も手にしました。海外出張のときに出会った『le temps du the』という本は世界のお茶のことを紹介しているお茶の本。写真の冊子と文字の冊子と二冊組。文字はフランス語なのでわからないけれど、写真を眺めるだけで、お茶はのどを潤すだけでなく、人とのコミュニケーションをとる場所であることを知った。世界中、どこでも同じなんですね。

仕事では出張も多く、フランス圏とアメリカ圏に販促する人、テイクアウトを考える人、メニューを考える人の3人組で行きました。いろいろ開発するために、「食べて、食べて、食べて…」。いい時代に行かせてもらったと思います。

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「もてなすこと」に軸足をおく

ほとんど本社にいたので、お店と遠くなっていました。お客さんとの距離ももう少し近い方がいいなと思うようになって、「どういうのがいいのかな」と考えていました。「もしかすると、料理教室というかたちがいいのかな」とお料理教室をはじめたんです。会社は「急に料理教室を初めても仕事にならないだろう。いままでの仕事を引き継ぐかたちで、出社できる範囲で会議に出たり、開発をしてはどうですか」と提案をしてくれました。それまで店舗でお客さまにしていたティーセミナーは継続して担当していました。結局東京には13年くらいいて、最後の6年ほどは契約社員として働きました。

お料理教室は友だちやサザビーの他の部署の人が来てくれて、そのまたお友だちが来てくれてという数クラスの小さい規模でやっていました。関西に戻ってきてからは箕面に教室を構えていました。

お菓子をまたつくるきっかけになったのは、東京のともだちが京都で個展をひらくことになり、「お菓子を焼いてほしい」と言われたことです。「できるかな?」と思ったけれど、せっかくの機会だからと焼いてみた。そこのお店の方が「展示が終わったあともお菓子を届けてくださいませんか?」と言ってくださったりお菓子を送ることになりました。

その後、ともだちの中国茶の教室やマルシェなどに出店するなどしてお菓子を焼く機会が増え、「あっ、忘れていた。これ」とお菓子を焼くたのしみを思い出したんです。お料理教室でも、のど越しのよい甘いものは必ず作っていたけれど、焼き菓子ではなかった。お菓子を焼く場所が欲しくて、お料理教室を辞めてゆっくり休憩しながら物件探しをしようと思っていたら、幼馴染のともだちが、清荒神のキキルアックの募集を知って「行ってみー」と言われてまず食べに行ってみました。次の日の朝起きて、「よかったなぁ」と思ってダメもとで電話をして、働くことになりました。ほどなくして、キキルアックからシチニア食堂に異動になりました。

シチニア食堂で働いていたときに、(オーナーの)シゲさんと高木正勝さんの音楽の話をしていたことがありました。その後に身体の調子が悪くなり休んだあと、はじめての出勤のときに、シゲさんが高木正勝さんの音楽をかけてくれて泣きそうになりました。最近、その高木正勝さんの『こといづ』(木楽舎)という本を読んでいます。すっと読めてしまうので、もったいないとゆっくり読んでいます。本を選ぶときは雑誌の書評などを参考にすることが多いかな。

いま、読んでみたいと思っている本は、誰かがInstagramにあげていた『なぜ花は匂うか』牧野富太郎(平凡社)です。高知にある「牧野植物園」へも行ってみたい。

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その他、ご紹介いただいた本

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『ブルッキーのひつじ』M.B.ゴフスタイン(ジー・ジー・プレス)
専門学校の頃からの友だちが送ってくれた絵本。絵と内容がたまらなく好き。特に、「耳の後ろをかいてやる」というところが好きで…。大切なともだちにプレゼントをすることもある。

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『イルカと、海へ還る日』ジャック・マイヨール(講談社)
イルカが好きだったので、昔は水族館へよく行っていました。映画『グラン・ブルー』を見て、この人イルカになるんじゃないかなと思った。振り返ると、この本には瞑想・気・呼吸法のプラナーヤーマなどが出ているので新鮮だったのではないかなと思う。(注:カバーを外されています。)

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『父と暮せば』井上ひさし(新潮文庫)
宮沢りえと原田芳雄が出ている映画がとてもよくて、それから原作を読みました。持っている文庫本はほとんどカバーを取っていますね…。昔から映画はよく見に行っていた。梅田阪神のアフタヌーンティールームで働いていた頃は、早番のあとに急いでロフトの下のテアトル梅田へ行って、レイトショーを見たり…。洋画でも邦画でも好きです。(注:カバーを外されています。)


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