陽キャ哲学‐情報商材批判論
陽キャ哲学では人間の能動性の回復にその主眼を置く。なぜ獲得ではなく回復という言葉を使うのかということについては私の過去記事を参照していただきたい。兎にも角にも現代では能動性の欠如が問題とされる。個人の意志決定がテクノロジーという補助輪によって支えられているということは周知の事実である。補助くらいであればまだ人間性の喪失に深く関与することはないが、いずれはAIによって能動性が完全に奪われる未来がやってくる。個人の自己決定が奪われるということは、其れ即ち個人が構成する集団の主体性が奪われることと同義であり、未来際はディストピア的であることは間違いない。しかし私はディストピアの到来を金科玉条のように叫び続ける終末の予言者ではない。ディストピアは絶対悪ではないのだ。なぜならディストピアはユートピアを悪い側面から見た世界に過ぎないからだ。例えば、産業革命前は貴族階級でもないのに労働をしない穀潰しが社会に存在できるなど考えも及ばなかったであろう。現在の日本では10人に1人はニートである。働かない人間でも安全で平和に生存できるというユートピアは、労働という社会参画を失った個人を差別しながら生存のみを肯定し続ける歪んだディストピアであるともいえる。貧しくて危険な国で横行する人権侵害の一方で、豊かで平等な国であるからこそ発生する差別もあるのだ。
ディストピアが必然だというつもりはない。人々から能動性が失われた状態で形成される社会はディストピアであり、それは人間性を脅かす問題である。部分的にではあるが社会に拡大する受動性の問題を解決するための思想が陽キャ哲学であるのだからディストピア化する社会と戦うことは私の使命であるともいえる。能動性の欠如には色々な原因が考えられるのだが、今回の記事では『情報商材の台頭』という昨今の話題を批評していこうと思う。
情報商材と能動性の欠落
辞書的な定義では『商品価値のある情報=情報商材』ということが言われているが、私が注目したいのはウィキペディアの『ノウハウ』という表現である。ノウハウとは物事の方法や手順に関する知識のことであり、共有されれば全体的な向上が見込まれる。情報商材は単に価値ある情報ではなく、新しい価値を再生産できることを売り文句にしている情報であると定義したい。つまり、思想性の強い文章や体験の共有は競技の情報商材には当てはまらない。技術の向上という意味では専門学校や学習塾が行っているティーチングや、武道やスポーツなどのコーチングも、一見すれば情報商材のように思われるかもしれないが、後述する理由において別物である。インターネットによって知が共有される時代において、情報商材の台頭は教育市場における価格設定の再評価や独学の推進などを引き起こし、少なからず社会的意義があったことは否定しない。ポストモノづくり時代においての新しいビジネスモデルではあるのだが、副作用として営業力&マーケティング信仰という価値の画一化を生み出してしまい、相対的に思想やアートの価値を破壊する結果となってしまった。
専門職に従事している人であれば身に覚えがあるかもしれないが、ノウハウは初級者にしか意味がない。私はITエンジニアをしているのだが、初級者向けのプログラミング教材は腐るほど書店で見かける。しかし中級者以上の技術者に向けた教材を見つけるのは難しい。これは『学習は実務を凌駕しない』ということの証左である。最低限の実務を熟すための学習は必要であるが、中級以上の知識は実践的な場で学ぶものである。アーティストの落合陽一によれば、大学と大学院の最大の違いは学習(learn)と調査(survey)にあるという。学習というのは教科書を読むことであり、調査というのは教科書を作ることである。現代に横行している情報商材のビジネスは、大学の作り方を教える大学教授のようなものであり、中身の入っていない箱に値段を付けて売る詐欺行為である。能動的行為とは調査(survey)のことであり、情報商材しか売ることができない業界は、研究者や教授がいない大学院と同様である。
情報商材系インフルエンサーのやまもとりゅうけんが、自身のツイートを別の情報商材屋にコピーされたことに憤っていたことが興味深い。これに対して、私は『情報商材はミーム(文化的遺伝情報)である』という趣旨の引用リツイートをした。元ツイートの内容は、事業を始めるタイミングをどこに持ってくるかというビジネスマインドに関する発信である。これはビジネスを始める前の人間に対するツイートであり、やまもとりゅうけんのツイートのインプレッションが多ければ多いほど、『まだビジネスを始めていない初心者』が彼のフォロワーに多いということを意味する。彼は能動性の欠如した人々(=陰キャラ)を集めて、能動性の重要性を売っているのである。お金を稼ぐことが出来るのは中級者以上の能力を獲得したものだけであり、彼の顧客はお金を稼げないまま永遠の初心者として彼のフォロワーであり続けるのであろう。ツイートのパクリ行為を行った情報商材屋は、やまもとりゅうけんのフォロワーであったかもしれない。やまもとりゅうけんが実業の方法を教えないことで、業を煮やしたフォロワーが氏の手法をコピーしてビジネスを始めたとしたら何という皮肉であろうか。彼は彼のノウハウでお金が稼げると謳いながら、守破離の守を実践するものをパクり呼ばわりして抑圧している。情報商材がミームである以上、作成者以外の人間が氏の発信した情報を複製するのは当たり前であり、創作物が模倣されたくないのならアーティストか思想家になるべきではないだろうか。
推されたいのか、育てたいのか
ノウハウとは知識や技術の獲得を目的として作られたものであり、普遍的でなければならない。普遍的な情報では手の届かない実存的な問題を他者が解決する方法にはコンサルティングやコーチングがある。独学で何かを学ぶのはそれなりの胆力が必要なので、他者を協力者として技術の向上を図る行為は有用である。コンサルティングとコーチングは厳密には別のものであるが『問題のヒアリング→方向性の決定→解決に導く』というプロセスは共通している。問題解決や教育においては、変わるべき人または組織が主役に設定されなければならず、コンサルタントやコーチはあくまでも脇役に徹さなければならない。インフルエンサーであることと、人や組織を成長させるということは根本的に矛盾しているのである。インフルエンサーは自分の人生をコンテンツにして成り立っており、彼ら彼女らの顧客となるのはインフルエンサーである自分の人生に興味関心のある人である。しかしコンサルティングやコーチングを受ける人が一番興味があるのは、自身の成長ではないだろうか。確かに直接の指導が受けられるのであれば、人物ありきで高い金を払う価値はあるかもしれない。実際、『推し活』という言葉があるように、インフルエンサーと関わることそのものに価値があるという考え方もある。自分という存在が推されているのならば、上辺だけの情報を誰かにコピーされたところで憤ることはないだろう。やまもとりゅうけんは情報商材屋としてポジションを張っていながら、インフルエンサーにもなりたいワナビーなので、誰かが自分と似た手法で成功するのを全力で阻害するのである。
使い古された決まり文句に『簡単に儲かる方法があるのなら、人に売らずに自分でやればよい』というものがある。これは裏を返せば、簡単に儲かる方法がないから情報商材を売っているという言い方もできる。さらに情報商材を売ることも一筋縄ではない。権威付けがなければ、無意味な情報を高単価で売り捌くのは難しい。しかし権威付けに成功すれば、情報弱者に情報を売らなくとも推しエコノミーに参入できる。結果として、情報商材を売っているのは推しエコノミーに参画できない(もしくは参画できても弱いポジションにいる)者たちだけになってしまっている。彼ら彼女らはコーチやコンサルタントとなって縁の下で活躍することを好まない。もしくはその能力がない。承認欲求は人一倍あるが、自分の思想やアートを共感させることの出来ない負け組が情報商材を売っているのである。「やまもとりゅうけんや医学部卒あおが惨めだね」という話をしているのではない。惨めな人間が惨めな人間を再生産する構図が公害であるので苦言を呈しているのである。
上述したが、調査(survey)が出来ない陰キャラが増えた背景には『スモールビジネス=情報商材販売』という悪しきイメージの定着がある。日本がモノづくり大国だったのは過去の話。不景気に少子化が重なり、新しいモノやサービスを作ってもお金を稼ぐことが難しくなった。本業で十分に稼げるのならば、副業の存在意義はない。やまもとりゅうけんは元エンジニアである。医学部卒あおは医者を目指して医学部に入ったはずである。双方とも成功すれば高給取りになれるポテンシャルを持った職業だが、彼らは敗退してしまった。旧時代の価値である経済的成功という果実は、我が国日本ではほんの一握りの既得権益層しか享受できない。享受できないのならば、酸っぱい葡萄だと言い切ってしまえばいいのだが、人が習俗を打破することは容易ではない。開き直る人が少なすぎるのである。我々は経済的成功という旧時代の価値に縛られている最後の世代であり、特異点はもうすぐそこにある。私を含めて開き直りを加速させていく勢力が今後も増えていくだろう。
情報商材の台頭という現象
ここまでと矛盾したことを言うようだが、情報商材屋は存在して良い。市場では常に需要によって商品の価格が決まる。再三述べているが、新興宗教に貢ぐ信者も、キャバクラに貢ぐおっさんも、ホストクラブで破産するホス狂も、パチンコ中毒者も、アルコール中毒者も、ソーシャルゲームの廃課金も、全て消費者の需要によって発生した問題であり、供給は需要に沿って行われただけである。供給を叩くことは自由主義経済と矛盾する。当然、国家が違法薬物や銃器などをある程度規制することは重要ではあるが、供給を攻撃することは自由主義経済を否定することに繋がりかねない。依存症や情弱ビジネスの最大の問題点は消費者の心の弱さにある。つまり、悪いのはやまもとりゅうけんではなく、ラクに社会階級を上げようと動画編集やマーケティングの教材を買ってしまう貴方たちである。もっと言えば、Youtubeで異性にモテる方法を検索したり、ひろゆきにスパチャして進路相談をしている貴方たちである。これからの時代は心の弱い人間はAIによって奴隷化させられるであろう。AIのレコメンド機能は優秀で、心が強い人間ですら抗えるかは未知数である。AIが個人の主義主張に沿った陰謀論やフェイクニュースを真実を織り交ぜて見せることで、大衆の投票行動がコントロール可能なことは、ケンブリッジアナリティカが証明済みである。
今現在でAIの思考誘導に抗う手段は少ない。私が提唱している陽キャ哲学ならギリギリまで抵抗が可能であるが、それも才能を必要とする(詳しくは別記事参照のこと)。どうせ陰謀論に支配されるなら自分を幸せにする陰謀論のムーブメントに乗っかる方がよいのではないだろうか。やまもとりゅうけんには物語がなく、彼を心の底から好きになったり尊敬したりするようなことはない。彼のノウハウで稼げないと分かったときに残るものは何もない。時間と金の無駄である。日本は不景気でお金をラクに稼ぐのは難しい。どの情報商材もあなたを経済的勝者にすることはないのだから、情報商材を買うならやまもとりゅうけんのようなおっさんではなく、美女に騙されて買った方がマシである。そもそも騙されるのが嫌だと思う人にはアーティストか思想家になることをお勧めする。簡単にはお金は稼げないが、上手いこといけば歴史に残ることが出来るし、最終的には経済的勝利も手に入る可能性がある投資性のあるギャンブルである。プロ奢ラレヤー杯を始めよう!!
まとめ
統一教会2世信者の山上徹也を社会的な重要事項として扱っておきながら、その裏側にある『心の弱い人間の問題』を軽視している風潮には呆れ果てる。統一教会に多額の献金をした母親の心の弱さが問題であると同時に、献金によって大学進学を絶たれたことを20年間も根に持ち続けて、元総理大臣を殺した山上徹也本人の心の弱さも注視に値する。親が統一教会に騙された裏で、山上徹也は学歴信仰に騙されたのである。何かに絶対的な価値を置くことの危険性は私が述べるまでもなく当然のことであるが、社会に重要価値として溶け込んでいる旧時代の価値基準が多くの心の弱い人を洗脳し続けている。なぜその価値が重要なのかを哲学することなしに、大衆の価値観に同化してしまう危険性は説得によってはどうすることもできない。以前の記事でも書いたが、不謹慎Youtuberが一役買うだろう。不謹慎や弄りなどで徹底的に馬鹿にすることで、エンターテイメントを通じて価値相対化をする必要がある。全身ハイブランドのセンスのない金持ちをバカにしたり、大きなお墓に座ったり、学歴主義のチー牛を弄ったりすることで、その価値にとらわれている心の弱い人間の助けになるかもしれない。興味がある人は下記の記事を参照して欲しい。それではまた次回お会いしましょう。さようなら。
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