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オバサン救済論

ネットで『無敵の人』と調べると多くの意見や批評が散見される。昨今の無敵の人関連事件の集大成ともいえる安倍晋三銃撃事件では、親と子の問題や宗教2世の問題がクローズされている。小田急殺傷事件や京王線ジョーカー男事件、またはその系譜となる秋葉原通り魔殺人事件など、無敵の人と呼ばれる犯人像が起こした事件は社会的自殺と深い関係がある。ゆえに、相模原障碍者施設殺傷事件の植松死刑囚や附属池田小事件の宅間守などのサイコパス性の高い犯人像を無敵の人に含めて考えることには違和感がある。無敵の人は学習性無力感と深い関係があり、動機は社会への怨恨という極めてシンプルなものである。無敵の人関連の事件は、少ない例外はあれど、20代後半~40代前半までの男性が起こすことが大半である。学生や女性または老人が無差別な暴力事件を起こすことは少ない。犯罪とは一見自暴自棄に見えても、犯人の認知の中では必ず損得計算があり、実行による実益が逮捕や死刑といった損失の価値を上回ったときに発生する。犯罪心理学では、社会で享受できる価値と自身との関係を『ソーシャルボンド』と表現する。学生であれば、可能性という希望を半ば無根拠に信じることが出来る。社会から恩恵を受けられるという楽観的な予測があれば,、犯罪を起こすことは未来際の価値を喪失することでありメリットが薄い。一方で老人は残された時間が少ないため未来に絶望することはない。しかし、なにゆえ女性は無敵の人にならないのだろうか。今回の記事では女性の無敵の人化が今後起こり得るのか田舎について論究して行ければと思う。

無敵の人と投資

弱者男性が無敵の人になる原因として、積み上げてきたものの少なさが挙げられる。社会に対する個人投資が少なければ、その分だけソーシャルボンドは薄くなる。現在、地球上に存在する人類はごく一部の例外を除いて定住文明を築いてきた者の末裔である。狩猟採集という不確実なその日暮らしを諦めた定住民の祖先たちは農耕を開始し、食料を自分の消費する以上に蓄えるようになった。チンパンジーやボノボのような類人猿は、基本的に所有物を分け与えるという行為を行わない。要求に対する贈与であれば類人猿同士の個体差もあるが行う種も存在する。例えばゴリラは所有物の贈与を全く行わないがチンパンジーは相手からの要請があれば贈与を行う。ボノボは劣位の個体に対する一方的な贈与行為が存在する。しかし、いずれの種も返礼期待や信用の構築といった複雑な概念が理解できるわけではなく、行われる贈与も例外的なものである。人間だけが贈与と返礼の二重精神を持っている。これは生物学者が唱えてきた互恵的な利他主義仮説や血縁選択説では説明の難しい文化的な営みである。さらに人類同士で比べると狩猟採集民は農耕民族よりも積極的な贈与を行う。通貨や法、およびそれらを管理する統治機構は所有と蓄財によって発生した文化であり、狩猟採集民にとっての財産の価値は、農耕民にとっての財産の価値とは同等ではないためにカジュアルな贈与が成立する。また狩猟採集は長期的定住が事実上不可能なため、統治機構を前提としていない。そのため平和な生活には他者への贈与が必要不可欠である。農耕民族が貨幣経済や所有権といった制度を採用したことにより、贈与は返礼期待やシグナリングを目的とした打算的行為に姿を変えていった。

無敵の人の話に戻るが、社会に対する投資とは打算的贈与の積み上げである。一方で人間は元々はチンパンジーやボノボと祖先を共にしており、血縁選択における無償の贈与という性質も同時に持ち合わせている。この2つのバランスを取りながら生きているのが人間であり、社会に対して行った投資からのリターンによって、血縁者や仲間に無償の贈与を行える。狩猟採集民であれば、分け与えるものは自分の見つけた果物や肉でよかったのだが、農耕民は普遍的な財である貨幣を収集する能力に大きな価値を置いている。継続的な能力の向上や人脈の開拓が必要になったのは資本主義という成長至上主義的な社会システムの所為であるという見方もできるかもしれない。しかし、単純に所有を拡大する動きを考えれば、身分の垣根を乗り越えることが難しかった封建君主の時代にもみられた現象である。産業革命後、人類の平均寿命は2倍以上になった。現在の中流階級は1世紀前の帰属よりも豊かな暮らしをしている。しかし、贈与とは被贈与者側の価値によってその行為の価値が決まるという性質ゆえに、社会全体の成長が贈与者にも強制的な成長を求めてしまうのである。私たちは能力至上主義からくる過剰なコンプレックスやルサンチマンを抱えた人間を見たときに哀れに感じたり、面倒くさく感じるだろう。しかし、物事は彼ら彼女ら個人の問題だけに終始しているわけではない。どんな能力や肩書に価値を置く人格であるかということは個人の裁量のみで決定することではなく、親や教師、周囲の人間の影響が大きい。暴力行為が支配的な地域で生まれ育てば、喧嘩が強いことや悪そうな仲間が沢山いることが価値になる。一方で、両親が医者の家庭に生まれれば医者という職業に特別な意味を持たせるかもしれない。無敵の人とは社会の求める価値を『持たざる者』が発症する社会的疫病であると言える。

オバサンの人生は楽しいか

女性に無敵の人が少ないのは何故だろうか。その理由は社会が男性による贈与を前提として設計されているからだと考えている。無償労働は女性的であり、有償労働は男性的であるという話を聞いたことがあるだろうか。伝統的父権社会では家事や育児は女性の役割とされてきた。社会学者の山田昌弘は職業別の男女比は性別役割規範に基づいていると述べている。生物学的にも封建制以前の社会学的事実においても、財産の獲得は男性(オス)の役割とされてきた。現代では差別的になるので誰も言わないが、女性の行為にお金が発生するという感覚は社会全体に共有されていない。例えば『料理をする』という行為について考えてみよう。家事労働としての料理は家庭に対する無償労働であり、それは性別役割分業で考えると女性の役目である。しかし、フレンチレストランのシェフといった有償労働の料理人には圧倒的に男性が多い。保育士や介護士のようなケア労働が人手不足なのにも関わらず低賃金なのはケア労働が女性の領域であり、無償労働から発展してきたという歴史と性別役割分業的意識が現在も残っているからなのである。この社会的無意識により男性と女性の賃金格差がなかなか解消されない。これは社会が生み出した不平等であり改善しなければならない問題ではあるが、求められる社会に対する投資が少ないがゆえに女性は年齢に対して積み上げてきたものが少ない人でも無敵の人になることが少ないのです。一般的に女性の凶悪犯罪率が男性より低いのはテストステロン値の差により暴力的になりやすいからだという意見もあります。確かに男性ホルモンの影響はあるとは思いますが、男性の犯罪率は詐欺や窃盗(強盗と区別され物理的暴力を伴わない盗み)に関しても女性の犯罪率を大きく上回っています。殺人や強盗、強姦等に関してはテストステロン値の差異で説明が出来ても、特殊詐欺のような計画的犯罪に男が多いことの理由にはなりません。犯罪率が法規制や警察権力の優秀さで上下することからも社会的要因が強い影響を与えているのは否定できないでしょう。

警視庁の犯罪統計 平成28年度版

上述に反して、これから先の未来では女性の無敵の人化が懸念される。男女平等と極端な個人主義の蔓延が女性を従来の男性と同じ土俵に立たせることになるだろう。金により手に入るモノやサービスは飽和している。低所得者でも5万円を超えるスマートフォンを2年ごとに買い替えているご時世で、中途半端な所得帯の男性は金銭での差別化を早々に諦め、自分たちの生きがいを模索している。資本主義での勝ち組の椅子には限りがあるので正しい判断ではあるのだが、旧時代の価値を押し付けなければ価値観変容の難しい陣営は同族が減ってしまうため抵抗はかなり必死に行われる。ミニマリストブームやノームコアファッション、SDGs、quiet quitting(定時出社/退社文化)などは資本主義に対するカウンターであり若者に広く受け入れられている。一方でTikTokを中心とする動画メディアでは、90年代-00年代に流行したセレブのお宅拝見のリバイバルのような金持ちインフルエンサーの豪遊動画や、情報商材による富裕層ブランディング、ホストやキャバクラ文化のカジュアル化など露骨な資本主義リバイバルのような潮流もある。これは成長志向と脱成長が分断を生み出しているように見えるが、本質的には多様化する価値観のどこに自分のポジションを取るかで迷走する価値観探しのムーブメントなのである。持たざる者のニッチ戦略としての芸人枠や炎上系といった立ち位置はすぐさまアーリーアダプターに目を付けられ、へずまりゅうやガーシ―などのインフルエンサーを生んだ。それを多少知的にしたのが西村博之や成田悠輔を始めとする論破芸人たちである。容姿も頭脳も優れないおじさんがこの枠で活躍できるというのは一見画期的なようにも見えるが、女性でこの枠を享受している人間は皆無である。これは女性の生き方が、若い時と中年以降で乖離せざるを得ない社会構造に問題がある。女性には女性としての役割を社会が与えているというのは上述したが、社会は厳しくある年齢を過ぎるといきなり梯子を外してくる。それは恋愛市場に限ったことではなく、エンターテインメントやメディアの世界でも同様である。若い女性とおじさんがセットでMCを務めている報道番組が多いことは度々問題になる。これは芸能界も同様で男性が成長主義や経験主義で出番を獲得する構図に対して、女性に対してはフレッシュさや容姿といった経験的要素ではないものが強く求められ、資本主義的な有償労働(能力に応じた出番の増減)が求められていないし、保証もされていないということの証左である。

フェミニストがやるべきこと

女性に対する不平等の対価として、従来の家族主義的な社会は女性を守る設計になっていたが個人主義によりそれも破壊された。私がフェミニストに違和感を感じるのが、フェミニストがおばさんを救う主張をしないことである。シングルマザーや大学医学部の女性差別は確かに大きい問題ではあるが、それ以上に無敵のおばさんの出現やコロナ禍での女性の自殺率の増加に目を向けるべきではないだろうか。出産した後もキャリアに影響なく働けることは、女性の労働人口と賃金を引き上げる要因になり得る。しかし、男性でも高収入かつシンギュラリティ後にも価値を持てるであろう仕事に就けている人は少ない。問題は現在男性が持っているポジションをどう女性にも分け与えるかではなく、どうやって女性が女性としての能力を活かせるポジションを確立するかではないだろうか。積極的是正措置によって女性の医者や議員が増えるのは良いことかもしれない。しかし医者になることは本当に幸せだろうか。ミクロ的に見れば現在派遣で事務員をやっている女性が医者になれるのならば年収が3倍近く上昇し、当人から見れば幸せであるかもしれない。一方で医者という男性でもなることの難しい職業の枠を奪い合うことを積極的に社会側が推進するというのは旧来の価値の再生産であり、東大前刺傷事件の東海高校の生徒のような東大orデッドという負の価値観を再生産することになるのではないだろうか。もっと言えば安倍晋三銃殺事件の山上徹也は学歴という価値に20年間も縛られ続けて元総理を殺害するに至った。もともと少ない枠を奪い合う競争に若者を無批判に参入させることには懐疑的にならざるを得ない。

フェミニストの皆さんに提案したい『おばさん救済論』は政治家や医師に対しての積極的是正措置ではなく、芸人や言論人を輩出する運動を繰り広げることである。置物的な美人ではなく、個性で男性芸人や言論人と渡り合える人材が望ましい。フェミニスト言論人の中には個性的で我の強いおばさんが沢山いる。しかし田嶋陽子や福島瑞穂のようなフェミおばさんでは意味がない。価値観の多様性を維持したまま個性と我の強い人材を輩出しなければ意味がない。ひろゆきや成田悠輔のような冷笑陣営にも、ホリエモンやネトウヨ言論人のようなパッション陣営にも等しく個性的な男性言論人がいるのが現在である。この枠を徐々に奪いながら言論空間に女性を輩出することが、結果的に彼女らが知名度を得て政治家になり、女性の声が政治に反映される結果に繋がるのではないだろうか。『このハゲ―』で有名な豊田真由子は議員時代に朝まで生テレビに出演して落合陽一やホリエモンと議論をしていたが、兎に角つまらなかった。お上品ぶって有権者に直接会う選挙の泥臭さを訴えていたことが記憶に鮮明だ。一方で本性がバレた後の彼女は面白い。元官僚で在ジュネーブ国際機関日本代表部に配属されていた経験もあり、コロナ禍でのWHOの動きについての示唆に富む発言には目を見張るものがあった。やはり性別役割規範は損益を受けている女性の側から脱構築して新しいポジションを探ることが重要ではないだろうか。男性の私がこんなことを言えば無関心に聞こえるかもしれないが、私は価値観の転換は持たざる者から始まると常々述べている。私も別の意味で持たざる者であるから彼女たちとは別の文脈で善処していきたい所存である。

まとめ

浦田恵美はこの事件以前にも暴行事件を起こして書類送検されていた。

2022年の7月に発生したゆめタウン博多通り魔事件の犯人は32歳(当時)の女性だった。犯行動機は死刑になるため未成年を刺し殺そうと思ったという無敵の人らしい動機であり、以前にも同様の動機で暴行事件を起こし未遂で終わっていた。この事件から昨今の詐欺事件まで、日本の犯罪傾向は変化しているように感じる。女性の犯罪への参入や若者の金銭目的の詐欺への関与など明らかに経済的な斜陽が原因と思われる流れを感じるようになった。AIによる業務の個人化やリモート化が進めば進むほど、一般的な女性は性別の優位性であるコミュニケーションを活かせる場所を失うことになる。今後、シンギュラリティの過渡期において女性や若者の犯罪率は一時的に増えるだろう。根本的な治安維持については警察権力に任せるとして、女性は女性で能動性の確保に勤しんで欲しいものだ。陽キャ哲学体系がそのための参考になれば幸いである。それではまた次回の記事でお会いしましょう。




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