20代に置いていきたい言葉たち


「勉強ができたって社会では使い物にならない」

「お前ほんとセンスないなぁ」

今までわたしの心の中に澱のように溜まっていた言葉たち。ことあるごとにこの澱を掬い上げてはまたすすり飲み、自家中毒を起こしている。


利発的な子どもだった。

一緒に暮らしていた祖父はわたしの賢さが自慢だったようで、客人が来るたびにわたしを呼び出しては電話番号や住所、将来の夢(当時は外交官)を言わせたり♪ABC〜と歌わせていた。客人は2歳ちょっとの子が舌足らずに外交官なんて言い出すからとても驚き褒めてくれて、わたしはとても得意げだった。3歳からは自発的に公文に通い始め、ゲームを攻略するかの如く先へ先へとグングン進んだ。

知らないことを知っていくのは楽しく、勉強は好きだった。わたしのアイデンティティは勉強ができること。勉強だけは誰にも負けないし、得意だと胸を張れた。


「勉強ができたって社会では使い物にならない」

伯母がよく言っていた言葉だ。その当時、週に数回顔を合わせる機会があったが、会話の度にそのような言葉が出ていた。他にもスポーツができる方がいい(わたしは運動が苦手)、運動部に入ると人は成長する(わたしは吹奏楽部)、だの。スポーツ万能で気が利く従兄姉と比べてはお前はつまらないと言われているようだった。伯母にとっては無意識だっただろうが、多感な時期のわたしにはそれが呪いの言葉となり、自分は勉強ができるだけのつまらない人間なんだと自己肯定感が下がっていった。


それでも勉強は続け、小学生の頃から憧れだった建築家になるべく大学の建築学科に入学した。好きなことを勉強できるって最高に楽しいし、勉強すればするほどまさに無知の知で、寝る間を惜しんで勉強した。友達と大学に寝泊まりして夜通し課題やプロジェクトに取り組んで、憧れの建築家の作品について語り合った夢のような時間を過ごした。あの頃のわたしは卒業したらアトリエ建築家の元で修行して、建築家として独立していくんだと鼻息を荒くしていた。

けれど、現実は残酷だった。学年が進むにつれ課題での評価が芳しくなくなっていき、自信をなくした。プログラムは評価されるけど、建築として立ち現れるものは良くないものばかり。どんなにエスキスやスタディを繰り返しても造形が良くならない。憧れの建築家とわたしの間にはクレバスのような隔たりがあって、もがけばもがくほど谷底に落ちていくようだった。

そしてついに大学院1年のとき

「お前、ほんとセンスないなぁ」

学科イチ怖い先生が一言。諦めるには十分な言葉だった。わたしにはセンスがないから評価されないんだ。アトリエなんて行けるわけないし、建築家になれるはずもないんだと。

大学院を出てから地元の設計事務所に就職したわたしは、先輩の指導の下に設計やデザインをはじめた。相変わらず自分のセンスには自信がなく、先輩がアドバイスする通りに設計し、騙し騙し図面を書く毎日。それでも建物は建つし、仕事は降ってくる。

そしてついにあるプロジェクトでメッキが剥がれることとなる。クライアントは50代の夫婦。夫婦それぞれの意見がバラバラに出され、打ち合わせも別々。いま思えば、設計士2年目のわたしがそのイレギュラーな状況に太刀打ちできるわけないし、出来なくて当たり前。それでも提案に提案を重ねて、なんとか設計図にした。苦しかった。

そしていざ工事に入る。いろいろな部分で問題はあったが、なんとか一つ一つ仕上がっていった、そんな時クレームが。フローリングの色が1枚だけおかしいと。現場を確認すると、確かにそこだけ濃い。しかし木材のクセといえばそれまでだし、他の物件でもよくあるし、わたしは気にならない程度だった。それを説明すると、クライアントが

「センスって大事ですよね。あなたにはそれがないから気にならないんでしょう。」

これまでも打ち合わせの中で、そのクライアントから小言のように色々言われたり、バカにされたりということがあった。あまり信用されてないんだろうなあと思い、上司や先輩に相談したりしながらなんとか工事を無事に終わらせられるよう頑張ってはいたものの、撃沈。


センスがないから分からない。


そうだ。わたしにはセンスがなかったんだった。センスがないのに設計やったらダメだよね。どんなに知識を詰め込んで、頑張ったところでセンスないしやっぱり設計向いてないんだ。

それからもいろいろあって会社を辞めた。設計を辞めた。社会人4年目のことだ。今は建築に関わる他の仕事をしている。

しかしついこの前目にした記事にて。



え、待って、この人めっっっちゃセンスあるやん。センスないて言われてきたて?どゆこと??すぐにマガジン購読。なるほど。センスは後天的に身につけられるとの見解。その方法まで書いてくださっている。塩谷さん、なんと親切なお方。そしてまた塩谷さんの文章が心に刺さること。何度も読み返したくなるし、そしたらもうファンです。

後天的に身につけられるなら、わたしにもできるかな?憧れてた「センスある人」になれるかな?とりあえずやれるだけやってみよう。


「勉強ができる」ことと「センスがない」ことにコンプレックスを抱き、自分で自分を苦しめてきた思春期〜20代だった。呪いの言葉のようにいつも頭の中に響き、わたしを臆病にさせた。

勉強ができて誇らしかった小さい頃の自分と勉強しか取り柄のないつまらない思春期の自分。センスのある何者かになりたかった自分とセンスのない何者にもなれなかった自分。ない混ぜになった2つの自分が今でも心の中に棲んでいる。

もうそろそろ解放してもいいんじゃない?


情報処理能力の高さは社会人になっても褒められることが沢山あった。勉強ができるって素晴らしいこと。小さい頃の誇らしい自分に戻ろう。

センスがないなら身につけたらいい。研究は得意だし、自分の感性(≠センス)や好きを突き詰めてみればいい。それがきっとわたしのセンスになる。




心の中の澱は20代に置いていこう。

自分を縛らず呪わず、認めてあげられる30代にしていこう。

あした、わたしは、30歳になります。



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