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他者の心を見つめるということ

熊本で勉強を教えない個別指導スクール「はらっぱ探究室」を運営するトミマツシホです。このnoteでは、私が日々「学び」について考えていることや、私自身の「学び」について書いていきます。


昨日に引き続き心を見つめるということについて。
昨日は自分の心をメタ認知するとストレスにいいというお話でしたが、今日は他者の心を見つめてみて感じたことをお話しします。

他者、といっても身近な他者である我が子について。

私は実のところ、我が子を持つまでは「子ども」という生き物が苦手でした。突拍子もないことをやりだし、奇声を上げる、謎の生き物。それが子ども。どう扱っていいか分からないし、うまく接する自信もない。妊娠して親になる自覚も生まれずに焦る私は子育て本をとにかく読み、予習に予習を重ねて出産に挑み、我が子を迎えました。が、本で読んだのと現実は全然違う〜!!!焦る焦る焦る〜〜!!!(当たり前)

また新たな子育て本を読み、ネットで検索をしました。とにかくいい親にならなければと。この子を子どもが苦手な私なんかの思いつきで育ててはいけないと。きちんとした何かの根拠を持って育てないと、私がこの子をダメにしてしまうと。そう思ってとにかく検索、検索、検索。

検索する中で出会ったある一つの考え方が、私の子育て観を一変させました。それは、モンテッソーリ教育について発信されている、モンテッソーリ教師あきえ先生の言葉。

子どもは自ら育つ力を持っている。
いわば、球根のような存在。
親や周りの大人は「環境」のひとつにすぎない。
球根に水や太陽や土が必要なように、子どもの育ちも親だけでなく周囲の様々な環境によって支えられている。
どんな花を咲かせるかは子ども次第。
親は自律に向けての先導者であれ。

上の言葉は私なりの解釈なのですが、このようなことを聞いたときにすごくホッとしました。頑張らなくっていいんだと。育つ力を信じればいいんだと。(信じることがどんなに難しいか、大変なのかをまだ知らない私)

それから、モンテッソーリ教育や子どもの育つ力について色々な発信を調べる中で、「観察」「共感」というキーワードをよく見かけるようになりました。
特にイヤイヤ期に差し掛かる1歳終わりごろから。
イヤイヤ期は自我の目覚めで喜ばしい。だけどまだ発語が未熟な段階なので癇癪を起こしやすい。ということで、子どもの気持ちを代弁し、言語化し、共感しましょう。という言葉ををよく見かけました。

イヤイヤ期真っ只中の我が子にいざ実践。すると、癇癪が落ち着くんです。嘘みたいに。
いや嘘なんですけど。
そんな共感するだけじゃ癇癪が無くなるなんて嘘じゃないですか。そんな。そんな魔法みたいなことあったらみんな苦労してないわっていう。

スーパーでアイスを異常なほどに欲しがり泣き喚く息子、こちらも白目剥きながら「そうだよねー、アイス欲しいんだよねー」と言い続ける。地獄です。2人で泣きながらスーパーを後にしたこともありました。地獄です。

でも粘り強く欲求への共感を続けていくと、だんだん潮目が変わってきたんですよね。1ヶ月くらいすると、まず、癇癪の頻度が減ってくる。半年も経つと、泣かずに「〇〇したい」と辿々しくも言うようになる。そこですかさず、「そっか、あなたは〇〇したいんだね」私が共感する。するとその後、息子は私の話を聞いてくれるモードに突入するんですよ。そこで欲求についての対話を行う。3歳の今は交渉ができるまでに成長しました。癇癪はほとんどなくなりました。

もちろん息子の月齢が上がり言葉も増えたことも大きな原因でしょう。でもやっぱり息子の気持ちを観察し、共感することを続けた結果でもあるんじゃないかなと思っています。
大人だって、相手から一方的に要求や気持ちを押し付けられるのは辛いですよね。子どもも同じことだと思います。

そして子ども自身、まだ自分の心を認知することが難しいので、関わる大人が気持ちを観察し、代弁することでメタ認知を行う。そして相手に共感することで、安心感のある関係性を作れるんじゃないかな。我が子との実践からそんな学びを得ました。

このモンテッソーリ教育との出会いの後、私は「観察」「共感」をベースに子どもの学びを導いているオルタナティブスクールに出会って更に学びを深めていくのですが、それはまた次回に。

はらっぱ探究室では、お子さまの心に寄り添い、共感することをモットーに掲げております。頭ごなしの否定は一切されず、のびのびと自分らしく学べる場所です。

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