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ラァス・オブ・ワースレイヤー!

1.オオカミはおののく

ドクターが死んでいる。それも医者の不養生なんて話ではない。胸にナイフが突き立てられているのだから、誰が見たって他殺だ。その胸からは肉の焼ける臭いと煙が立ち昇る。尋常の刃物とは思えない。すぐに抜いてやるべきだと思って駆け寄ろうとした。その瞬間だった。

「やめたまえ、助手クン。凶器にキミの指紋がついてしまうよ」

あんたの助手じゃない。この山荘の管理人だと言い返す前に鳥打帽の若い女が談話室に潜り込んで来た。足音は聞こえなかった。後ろ手にドアを閉める音だけが重々しく響く。

「警察が来るまでは動かしてはいけない。これは基本的なことじゃないか」

我々は仲間の死体を警察なんぞに渡すわけにはいかない。ましてや彼らを山荘に招き入れるなど論外である。我々の問題は我々がけりをつけるのだ。そう言おうとしたところで危うく思いとどまった。「我々」が何者なのかを部外者に明かすわけにはいかないのだから。

「他の宿泊客を呼んで来るよ。付き合いの長い友人を冷たい床に寝かせたまま置き去りにするのが辛いのはわかるつもりだけど、生きているキミは暖炉にあたった方が良い」

ドクターは良い奴だった。彼との思い出を反芻している間に、部屋の入口に山荘の常連客が、つまり群れの仲間が集まって来た。まずは長老。おれには一瞥もくれずに談話室に立ち入って、何も言わずに立ち尽くしている。次に入って来たのは、群れの中ではドクターに次ぐ発言力を持つ弁護士。それから教師。群れに入ったばかりのサラリーマン。最後に長老に付き従うエプロンドレスの下女。その下女に長老が何か耳打ちしている。下女がおれに向き直る。

「……お客様は酷く狼狽されている様子。管理人さん、どうか彼女の部屋まで付き添ってあげて下さいませ」

おれは咄嗟に「狼狽」の意味が思い出せずに鳥打帽を見る。なるほど確かに「生まれて初めて他殺体を見る女性」の演技としては合格点を出してもいいだろう。

「この山荘に賊など入り込んでいるかもしれません。管理人さん、くれぐれも、彼女から目を離さぬように」

それが方便だということぐらいは理解できる。いかにも怪しい部外者である鳥打帽(ひょっとしたら賊そのもの)を監視せよということだろう。

「よし、これで二人きりだ。作戦会議と行こうじゃないか」

そして客室に辿り着いた途端に、こうである。こいつは一体、何者なのだろう。かの高名な私立探偵を想起させる帽子と外套。死体を見ても動じない胆力。まさか、この山荘での❝人間狩り❞に気付いた警察関係者なのだろうか。

「キミは知りたくないかい?彼は何故、そして誰に殺されてしまったのか」

本音を言えば、おれだって知りたい。誰が、何故ドクターを殺したのか?おれ達は人狼だ。たとえ怪我や病気になったとしても、人間の病院で厄介になるわけにはいかない。身長や体重を測られるぐらいなら構いはしないが、血液や体組成など調べられれば我らの存在が明るみに出るだろう。そうなれば人狼は人間に狩られる運命だ。人狼には人狼の医者が必要なのだ。群れの誰かがやったとは考えにくい。墓穴を掘りながら自分の尻尾で自分の首を絞めるようなものだ。

「あのナイフ。あんな風にして人間の体を蝕む凶器は初めて見る。是非とも詳しく調べてみたい」

ただ一つ確かなことがある。この鳥打帽の正体が何者であろうと、それこそ賊だろうが本当の名探偵であろうが、あの凶器に触らせてはいけないということだ。

「なあ、探偵。まず自分の身を守ることを考えろ。第一発見者であるおれだって怪しいが、そもそも部外者のあんただって十分に怪しいのだぞ」

「何だい。つまりキミの仲間は、ボクが犯人だと思い込んだら警察の到着を待たずに私刑に走るような物騒な連中だと言いたいのかい」

「完全にその通りだ」

「冗談のつもりでは無さそうだね」

おれ達は人狼。そして人狼は人間狩りの怪物。この山荘に人間を招待して殺す。そして犯人当ての推理ゲームをするのが、我々「ミステリー同好会」の年末年始の過ごし方だ。しかし狩る者が狩られたというのは前例の無いことだった。だから長老と群れの仲間は今頃、ドクターを殺した犯人を捜すよりも先に、この鳥打帽を招待した犯人捜しをしていると思う。

「あんたを呼んだのが誰なのか。あんた自身にも本当にわからないのか」

「この山荘には事務所への電話で呼ばれただけだからね。だけど料金はキミから貰っている。ボクはしっかり探偵役をやらなきゃいけないだろう?」

その事務所というのは探偵事務所ではなく、モデル事務所だというのだ。呼ぶ方もおかしいが、来る方もどうかしている。電話帳にも載せていない山荘からの電話を怪しいとは思わなかったのだろうか。撮影の仕事というのは、そういうものなのかもしれないが……。

「それだけじゃない。キミがドアを開けて迎え入れてくれなかったらボクは視界ゼロメートルの猛吹雪の中で、とっくにくたばっていた頃だろう」

2.間奏曲

時代の流れとでも言うべきか、この山荘の電波状況も改善された結果としてクローズドサークルとも呼ばれる一時的な陸の孤島を作れなくなったのだ。それに加えて、普段は人間社会に紛れて暮らす同胞にも何者かが身辺を嗅ぎ回っているのに気付いたという者もいる。今年の❝人間狩り❞は中止。そして一年に一度、我々が一か所に集まるのも今年で最後にしようというのが長老の意思決定だった。長老、ドクター、弁護士、教師、サラリーマンに、それから下女の六人を山荘に迎え入れ、今年も誰一人として欠けずに一年を過ごせたことに安堵していた矢先に、誰が呼んだのかも知れない謎の女が山荘に訪れてドアを叩いたのだ。混乱が起きるのも当然というものだった。

「何だい?ボクをじっと見て」

「おれとしたことが、遠くから来た客にコーヒーの一杯も出さなかった不手際に今更ながらに気付いたのだ。少し待て」

仮に彼女が我々を始末しに訪れた狩猟者だったとしても。おれをこの場で殺すつもりだったとしても。おれがコーヒーを出すと言えば、殺すのは飲み終えてからでもいいと思ってくれるだろう。そうであって欲しい。灼熱の泥濘をカップに注ぎながら、おれは小さい頃に長老から何度も聞かされた狩猟者の話を思い出していた。

「狩人が闇夜に乗じて現れる。一人でいるとき、怪我をしているとき、お腹を空かせているとき、寒さに震えているとき。お前の毛皮を剥ぐために!」

聞かされたのはそんな話だ。結論は常に、ここから飛び出して一匹の獣として生きようなどと考えてはいけないよ、というものだった。彼女が長老の言う狩猟者とやらだと仮定すれば次の犠牲者はおれだろうか。しかしドクターは人間の姿でいるところを殺されている。つまり毛皮を剥がされたりはしていない。考えれば考えるほどわからないことばかりだ。次の殺人が起きるのを待ち構えて尻尾を掴むのが確実であろう。おれは犯人をおびき寄せる生餌といったところか。望むところだった。手柄さえ立てれば、長老もおれを見直すに違いない。

「客というなら、キミもボクの客だよ」

鳥打帽が呟いた。その言葉が引鉄になって、我々と彼女との水掛け論が玄関で繰り広げられたのが思い出される。

「呼ばれた」「呼んでない」「帰ってくれ」「吹雪が収まるまで帰れない」

おれは大枚を叩いて彼女から沈黙を買い取った。そのまま大人しくしていることを条件に空いている部屋に案内する約束もした。この部屋は毎年、ゲームの犠牲者となる外部からの人間を泊めていた七号室である。

「なのに命の恩人でもあるキミに、まだ何のサービスも提供できていない……」

おれにはピンと来ない話だった。おれが彼女に手渡した十枚ばかりの紙片には、それほどの価値があったということなのだろうか。あの肖像画を集める為に下界では人間が汗水たらして働かされているのは知識としては知っている。群れの仲間とて同様だ。おれだって貰えるのは一年に一度、それも一枚だけだった。もう人間狩りが行われなくなるとなれば、この山荘にも利用価値が無くなり、長老はおれを用済みとして放逐するかもしれない。そうなれば生きる為に人間に混じって何かの職を得なければならぬ日が来るかもしれないのだ。そう考えれば早まったことをしたのかもしれない。今更ながらに冷たい汗が背筋を伝う。ドクターを殺した犯人よりも、戯れに彼女を山荘に呼んだ愉快犯を突き止める方がおれにとっては有益で、そして差し迫った問題であることは間違いなさそうだ。死んだ仲間は戻らないが、失った金品は取り戻せるかもしれないからだ。

「いいからコーヒーを飲め。出したものを引っ込めさせるな」

「うん」

こうやって知らない誰かと話すのも、意外と悪い気がしなかった。この山荘に閉じ込められて暮らしていると、誰かと話す機会と言えばドクターがおれの体調を見に来てくれていたのが半年に一回か二回、下女が車に乗って食料や日用品を持ってきてくれるのが一か月に一度ぐらいなのだから、誰かと落ち着いてコーヒーを飲んで語り合うなんて何年ぶりのことだろうか。口が裂けても言えないが、おれは既に対価に相応しいとさえ思える楽しい気分を味わっているところだった。人間狩りの片棒を担いでいたおれが人間を気に入る日が来るなど夢にも思わないことだった。違う、本当は夢をみたことはある。信じられる誰かと一緒に何も無い時間を過ごす夢を。おれの本性を知ってなお、受け入れてくれる人狼ではない誰かと。それがおれに許されようはずもない。目覚まし時計が夢の終わりを告げるように、あるいは運命がおれの非を鳴らすように、甲高い悲鳴が我らの山荘に鳴り響いた。

「行こう、助手クン!」

はだけた上着を羽織り直して、鳥打帽は部屋を飛び出して行った。一足遅れたおれを廊下の冷たい空気が打ち据える。予感があった。彼女の暖かさが残るこの部屋に、おれは二度と戻ることは無いだろうという予感が。

3.オオカミは謎に挑む

甲高い悲鳴は下女の声だ。おれ達は弾かれるようにして部屋を飛び出していた。廊下には煙と異臭。それから談話室の前に座り込んだ彼女の姿が見えた。

「なぜ彼女だけが?他の仲間は何処だ?」

おれの疑問を鳥打帽が代弁してくれた。下女に手を貸して立ち上がらせようとするが、彼女は部屋の中を指さしたまま顔を背けてすすり泣くばかりだった。おれは当初、あまりにも短時間でドクターの死体が腐敗したものだから衝撃を受けて泣いているのかと思った。そうではなかった。鳥打帽も絶句している。仰向けに倒れるドクターの横で背中にナイフを生やして弁護士がうつ伏せになって倒れていたのだから。ナイフは一本、死体は二つ。窓から何者かが侵入したような形跡は見当たらない。依然として外は視界ゼロメートルの猛吹雪。

「どういうことです。この部屋に弁護士殿は何の用が?そして、それは貴女も同様ですよ」

「それがわからないのです。私達は探偵さんと管理人さんが退出した後、居間に集まって今後のことを話し合っていました。その途中で三村様がトイレに行くと言ったきり、なかなか戻って来ないもので長老の指示で……」

「三村」というのは序列三位である彼のコードネームのようなものだ。ちなみに序列二位だったドクターは「二宮」。当然だが表社会における彼らの「人間としての名前」は別にある。

「様子を見るべくトイレに向かう途中、この部屋の扉が開け放たれているのを見てしまったと」

ひょっとすると彼は、この凶器を密かに回収しようとしたのかもしれない。次なる凶行を食い止める為の独断専行か。或いは損壊が進行するドクターの遺体に胸を痛めてのことか。

「一見して死体を引きずったような形跡は見当たらないね。他の場所で殺されてから、この部屋に運び込まれたということは無いと思うよ」

それはそうだ。凶器は、この部屋に置き去りにされたナイフなのだから。そう言おうとしたところで鳥打帽に、ぐいっと身体を引き寄せられた。

(でもね。彼が背後から襲われたのだとしたら、犯人は彼の後から部屋に入った人間だと考える方が自然だとは思わないかい)

おれの頭では鳥打帽の言っている意味が咄嗟には理解できなかった。しかし泣いている下女に聞こえないように耳打ちしたということは、つまり彼女には聞かせたくない話だということは瞬時に理解する。現時点では彼女が怪しいということだ。

(でも、その話はやめよう。第一発見者が怪しいというならキミだってドクターを殺した犯人じゃないかと疑われてしまうよ)

そうなれば弁護士を殺した罪も、おれと鳥打帽に擦り付けられかねない。おれ達が部屋にいたことを証言できるのは、おれ達しかいないのだから。

「よし。三人で居間に戻ろう。これからは一人で動いてはいけないよ」

一人ではトイレにも行けない異常事態。居間に戻った下女とおれ達を待ち構えていたのは剣呑な眼差しの長老、教師、サラリーマンの三人だった。トイレに行った弁護士はどうした、とは聞かれなかった。「彼は死んでいた」と言う役目は、序列七位のおれが買って出た。言い終わるのを待たずに来たばかりの我々と入れ違うようにして三人は居間を出て行った。序列二位と三位を一遍に失ったのだ。この群れも長くはないだろう。

「三村氏がトイレに行くまでは五人で居間に集まっていたのですね?」

「ええ、そうです」

「みんなで話し合って、その時点での結論と言いますか。ドクターを殺した犯人と思しき人物に目星は付いたのですか?」

序列六位の下女が問われるも口ごもる。やはり、おれと鳥打帽が疑われているのだろう。

「長老が犯人捜しは二の次だと。部外者であるお客様と管理人さんを犯人だということにして事件に幕を引くとおっしゃったのです。それで凶行が収まればよし。収まらなければ次の一手を考えると。四方木さんも五十嵐さんも、それから私も面と向かって反論することも出来ずにいました。話し合いというか、一方的な通達を聴いていただけです」

やはり推理で身の潔白を証明することで自分の安全を確保しようなど稚気じみた夢でしかなかったか。人間には人間の、人狼には人狼の流儀というものがある。そして我々が挑んでいるのは人狼が今まで興じていたような安全圏での推理ゲームではない。

「それで助手クン。キミはどうする」

どうにもならない。真の人狼《ガルー》である長老と、その二匹の家来を敵に回せば序列七位の下位種《ルー=ガルー》である自分は半瞬で八つ裂きである。この部屋に忌まわしき死そのものが足音を伴って近づいて来ているのがわかる。

「そもそもドクターが殺されたのは何故だろう?彼が居なくなることで得をする人物に二人は何か心当たりはあるかい?」

全身を強張らせた下女がおれに何かを言いたげな視線を向けた。『余計なことを喋るな』とでも言いたいのだろうか。知ったことではないので思ったことをそのまま述べる。

「序列二位のドクターが死んで得をするのは序列一位の長老を除いた全員だ。部外者のあんたも例外か」

「その序列というのは何だい?キミ達は一体どんな集まりで……」

最後まで言い終えることは出来なかった。居間の扉が開いて三匹の狼がなだれ込んで来たからだ。二本足で歩いて人間としての顔と体裁を最低限度は保ってはいる。しかし服の下は違う。袖口から見える大量の体毛から察するに人間としての顔はそのまま、四肢は既にオオカミのそれに変えているのが見て取れる。真の人狼たる《ガルー》の特権、部分変身だ。

「そこまでだ。お前を拘束させてもらう。客人も同様だ。抵抗するなら……」

最後まで言わせるまでもない。おれは両手をあげて降参の構え。鳥打帽もおれに倣って降参のポーズだ。

「下げろ。手錠をかける」

そこから先は早かった。おれ達は猿轡をかまされて紙袋を被らされて後ろ手に手錠をかけられた挙句に別室に放り込まれた。目が見えずとも床の踏み心地で理解する。ここは人間狩りの犠牲者を埋葬する前に寝かせておく半地下室だ。ここに来るのも一年ぶりだ。狩る者が狩られたように、埋葬する者が埋葬されることになったか。

「これでまた二人きりだねぇ」

聞き慣れた囁き。もぞもぞと背後で柔らかい何かが蠢いて手錠が外される。
紙袋を外されて視界が回復する。猿轡を外されて顎関節に安らぎが戻って来る。

「随分と手荒い連中だったね。助手クン、どこか怪我は無いかい」

おれと同じように視界と両手と発言の自由を奪われたはずの鳥打帽が前屈みになって心配そうにおれの顔を覗き込む。お互い五体満足であるらしい。どうやって拘束を逃れたのか聞きたい欲求は抑え込む。全身全霊で平静を装って、ただ「問題ない」と言うだけに留めた。

「本当に怪我は無い?ちょっとシャツを脱いでみせてくれまいか。パンツでもいいけど」

要求がエスカレートする前に速やかにシャツを脱ぐ。鳥打帽が気にしているのは、おれの怪我よりも寧ろ体毛だと思われる。三匹の人狼が身に纏う空気(あるいは獣の体臭)、そして服の袖から覗く凄まじい量の体毛に鳥打帽も気付いたのだろう。

「ふむ。見たところ怪我は無いようだね。ふむふむ。背中も見せてくれ」

満足してくれたようなので速やかにシャツを羽織る。皺を伸ばして、襟を正す。それにしても寒い。暖房が無いのだから当たり前ではある。それこそオオカミの体毛があれば十分な暖かさが得られるかもしれないが。

「では、さっきの話の続きと行こうじゃないか。都合よく邪魔者もいなくなったことだし」

いなくなったのは我々の方だが。

「キミを含めて、あの長老とやらに従う彼らは何者?一体なんの集まりなんだい?」

おれ達はミステリー同好会だ。そして年末年始は社会の喧騒から離れて静かな「いかにも何かが起きそうな雰囲気」の山荘で思う存分に語らいながら過ごすだけの同好会だ。

「わかった。ちなみにボクは、こういう者です」

左手に黒い手帳。ドラマで見たことのある意匠のアイテムだ。右手には拳銃。おれは再びホールドアップした。そして人間狩りのこと、その犠牲者を埋葬するのが本当のおれの仕事であること、人狼の生態について知る限りを全て吐いた。スッキリした。

「よく話してくれたね、ありがとう。ちなみに手帳も銃も玩具だよ。撮影の小道具さ」

開かれた手帳には顔写真など無かった。半ば放心状態になりながらも差し出された銃をあらためる。本物を手に取ったことの無いおれにも即座にニセモノだと知れるような重量、手触り、樹脂の匂いだった。してやられた、ということか。

「連中、ボクの鞄を開けて中身を調べたみたいだね。この手錠もボクの持ち込んだ私物だよ。本物そっくりに作られているだけだから、構造を知っていれば抜け出すのは簡単さ」

冷静さが回復するにつれて胸の中で新たな違和感が芽生えるのを感じた。人狼といえば伝説の怪物だ。その怪物を目の前にして冷静でいられる彼女も何者なのだろう。それとも、おれのような下位種などは脅威ではないと言いたいのか。

「よろしい。ボクとキミは既に一蓮托生、二人三脚で頑張らなければいけないからね。何を隠そう、ボクは」

その瞬間だった。この半地下室の扉が開かれたのは。長老と下女だった。おれは何故いつも足音に気付けないのだろうか。おれ達は既に拘束を解いて自由の身になっている。そうでなければ油断を誘って不意打ちに全てを賭けることも出来たかもしれないのだが。

「やはりお前らの仕業だったのだ」

普段はおれに一瞥もくれない長老の声を聞くのは久しぶりだった。おれを処刑する為に自ら動いたということか。

「そこの女が得体の知れない手品で同胞を殺した。お前の手引きで山荘に潜り込んだ女が」

完全に人狼の本性を現しつつある二匹を相手にして、おれは恐怖で反論もままならない。今から変身しても間に合うだろうか。勝ち目などあるだろうか。何よりもおれは、彼女に自分の本性をさらけ出すのも怖いのだ。

4.オオカミ殺しは親殺し

「お前が招き入れた商売女が二宮と三村を殺した!たった今、四方木と五十嵐も死んだ!二人は折り重なるようにして死んでいた!その女は魔女だ!」

「ボクが魔女?それは随分と買い被られたものだね」

「見ろ!その魔女が魔法で拘束を抜け出したのだ!」

言うが早いが長老がおれに、そして下女が鳥打帽へと変身しながら同時に飛び掛かる。一か八か、おれは絶叫と共にオオカミ変身を間に合わせて喉元に迫る牙を必死になって押し留める。確かに、おれは殺されても仕方のない男だ。この山荘で何人もの招待客を埋葬してきたのだから人間社会のルールに照らし合わせて考えれば重罪だろう。だが、まだ死ぬわけにはいかない。そう自らを奮い立たせた矢先のことだった。鼓膜を叩く轟音。その音に長老が怯んだ。音の出処を確かめようとして、一瞬おれから目を逸らしたのだ。伸るか反るか、全身全霊で長老の体を横倒しにする。これで体勢は互角。力比べなら勝ち目はある。しかし、おれの真新しい爪と牙では古狼の毛皮を貫くことは出来ないだろう。おれにとって狼よりも強く逞しいものは何か。おれが本当に頼るべきは何か。導き出された結果は他でもない、この山荘を支える大黒柱だった。

「何だ!?その非科学的な力は……」

おれの両腕が比喩でなく丸太と化す。長老が体勢を立て直すより早く起き上がって打撃を叩き込む。竹馬の要領で右、左、右、左。古狼は転がりながら十分な距離を稼いだと見るや体制を立て直して、おれと対峙する。

「オオカミの誇りは捨てたということか!」

丸太となった両腕の感覚は既に無いが、おれの両肩は悲鳴をあげている。無理を承知で重量に任せた攻撃を立て続けに繰り出した代償は高くついた。

「何が科学だ、非科学だ。それが人狼の言う事か、一条!」

無意識のうちに、おれは長老の名前を叫んでいた。絶叫と共に最後の力が湧き出てくるのが感じられた。見えない足が生えて体を支えてくれるような頼もしさだった。おれは全身を丸太に変えて長老を轢殺すべく全力で前進を開始した。

「馬鹿な!《ルーガルー》である貴様が!名前の無い獣が……!」

おれと長老の力比べが始まった。転がる丸太の馬力と塞き止める古狼のトルクが激突を経て拮抗する。おれには既に目も耳も鼻も口も無い。このまま薪になろうが材木になろうが構わない。元の姿に戻る為の余力も残さず最後の突撃を敢行しようとした瞬間、誰かの声が確かに聴こえた。その声は、月の無い夜空に輝く星々の輝きを思わせた。

「ボクが!キミの助けになる!だから教えて、キミの名前を!」

おれの名前。おれには家族も故郷も無い。走馬灯で振り返る過去も無い。山荘。吹雪。人狼。密室。推理。名無し。序列七位。名無しの、七位。

「……おれの名前は、ナナシ!七つの梨で、七梨(ナナシ)!!」

「七梨!!」

彼女の声が撃鉄となって最後の最後の力が湧いてきた。おれの体に突如として無数の❝棘❞が生えてきた。それは長老の力を逆手に深々と毛皮の上から突き刺さって離れなかった。

「おのれ!おのれナナシ!」

それが長老の最期の言葉になった。彼がおれの名前を呼んだ途端に見えない腕が後押しするように、おれに最後の最後の最後の力が湧いたのであった。まるで死の直前になって、おれを対等の存在として認めてくれたように思えてならなかった。今、おれは全てを思い出していた。おれは人間でも人狼でもない。山で母親と暮らしていたキツネだった。手袋を買いに人里へ降りたところで、若かりし頃の長老に捕まって彼の邸宅で一緒に暮らすようになったのだ。暖かい部屋と三度の食事。いつしか、おれも彼を父親だと思うようになっていた。おれの名前は七梨。あんたの息子の、一条七梨だ。そう念じたら、おれの全身は人間の姿に戻っていた。

「やったね。ボク達の勝利だ!」

鳥打帽が両手を広げて飛びついてきた。百貨店の一階の香りに鼻が満たされる。無事だったのか。オオカミになった下女は長老と一緒に敷物みたいに潰されて冷たい床に横たわっている。一体どんな魔法を使って人間が人狼に打ち勝った?

「魔法じゃないよ。文明の利器さ」

そう言って自慢気に構えたのは例のニセモノの拳銃だった。

「種明かしをしてあげる。この拳銃はニセモノだけど弾丸は本物なのだよ。原材料となる樹脂さえあれば、こんな銃は誰でも二束三文で作れるのさ」

恐ろしい時代になったものだ。それにしても四方木と五十嵐が死んだというのは本当なのだろうか。もし生きていれば長老に加勢しない理由は無いのも事実だが。

「知りたいかい?なぜ彼らは死ななければならなかったのかを」

十年来の親友のように思っていた鳥打帽が、おれの知らない表情を覗かせる。知り合ったのは今朝だが、しかし人生で最も長い一日を共に駆け抜けた相棒だと思っていたのは浅はかだったということか。おれは知るのが怖い。その質問が怖い。次の「何か」が訪れるのが恐ろしくて堪らなかった。

5.何もかも、何もかも全て!

光沢のない銃身が、虚ろな銃口がおれに狙いを定めて動かない。

「ああ、手を上げて。そう、そのまま」

半地下室に異様な煙と異臭が立ち込める。その出処は、あの銃でくたばった下女の死体からだった。

「そろそろ種明かしをしないとね。これは銀の弾丸といってね」

銃声が二回。下女の死体が跳ねるように痙攣する。腕の動きを目で追うことすら出来なかった。死体を撃ったのか。この状況で何の為に?

「……赤ちゃんがね。いるかもしれないから」

咄嗟には意味が呑み込めなかった。何かの聞き間違いだと思った。赤ちゃん。この状況にはあまりにもそぐわない言葉だった。下女の腹には一秒ごとに広がる新しい二つの風穴。そして銃口は再びおれを狙っている。

「キミ達を追っていた。この山荘で付き合いの長い情報屋も死なせてしまった。だけど一年に一度、ここに人間を襲う怪物が集まるのは掴んでいたのさ」

ここで死に、おれによって埋葬された招待客の中には彼女に雇われた密偵が混じっていたらしい。埋める前に死体を念入りに調べていれば、発信機の一つか二つは見つかっていたかもしれなかった。今さら悔やんでも仕方のないことではある。

「ところで助手クン。キミの群れが、何を目的とした集まりだったのか知っているかい」

社会に紛れる人狼の集まり。己の獣性と折り合いをつけるべく、人里離れた山荘で人間狩りを満喫する為の互助会。以上がおれの知る全てだった。銃口がおれの額に強く押し付けられる。

「繁殖だよ。キミの仲間は人狼の仲間を増やす為に集まっていたのさ。そこでくたばっている彼女を使ってね」

「繁殖」

気の利いた言葉は出せなかった。人狼も動物なのだから当たり前だという気持ちと、人狼も人間なのだから繁殖というのは、その、つまり、結婚を前提としたものであるべきだという気持ちが拮抗して、おれの心は身動きがとれなくなっていた。

「人間の両親の間にも人狼が生まれることはある。一つの時代、一つの国に、せいぜい一人いるかどうか、といった割合だけどね。だけど今は、この狭い国に確認できるだけで六人もの人狼が生きていて、しかも互いに面識があるという。ボクの依頼主が恐れたのは、人狼と人狼の間に生まれるかもしれない、本当の人狼が再び世に生まれることだった」

やはり人間の中には人狼の存在を知る者がいたのだ。そして知った以上は自らの天敵を野放しにしておく理由も無い。おれ達を狩る者どもの組織が、そして人脈があるのだろう。

「それでキミは、どうしたい?」

何やら風向きが変わったのを感じる。何もかも説明したからには、この場でおれを始末する腹積もりなのだと思っていた。

「キミは人狼ではない。だけど人狼よりも厄介な怪物に育つかもしれないからね。ここで殺してスッキリしておきたいところだけど」

如何なる手品か。振れずして鳥打帽の上着がはだけて、シャツのボタンは上から順に外れていく。

「下手に殺すと呪いを残すタイプの怪物かもしれない。キミもスッキリしてから死にたいだろう?」

頭の中で何かが弾けた。時間を稼げば生き残りの目はあると考えていたのが、何もかも遠い過去のことのように思えた。おれの無念。心残り。

「死ぬ前に、したい」

「何だい?ハッキリ言ってごらんよ」

「みんなの死体を埋めたい」

おれが死んで彼女が去れば、この山荘は怪物の亡骸が放置されたまま春を迎えることになるだろう。この山荘は長老が唯一、おれに任せてくれた大変な宝物なのだ。いつ、誰が来てもいいように整えておかなければ、おれは死んでも死にきれないだろう。

「他には無い?キミが仕事熱心なのはわかった。それはそれとして一人の人間としてやり残したことがあるのでは?」

タチの悪い酔っ払いのように鳥打帽がおれの首に手を回してきた。こいつ、一体なんなのだ。やめろ、腰に手を回すな。

「母ちゃんを探したい。ただのキツネだったらとっくにくたばっているだろうけど、おれみたいに人間に化けて何処かで生きているかもしれない。会って言いたい。おれは親切な人に拾われて寒い思いもひもじい思いもしなくて済んだって。ちょっと。聞いているのか」

鳥打帽は懐からスキットルを取り出して中身をごくごく飲み始めた。本当の酔っ払いの完成だった。芳醇な香りが鼻と食欲をくすぐった。

「ブドウを食べたい。酸っぱくても構わない。腹一杯に食べたい。待て、酒は飲まなくていい。無理に飲ませようとするな。やめ……やめろや!

母親を探すのは春になって暖かくなってからのことだしブドウを食べられるのは夏になってからのことだ。それまで鳥打帽はおれを生かしてくれるらしかった。人里で人間として生きようとすればそれだけで金がかかるということだが、それは彼女の助手として働いて相殺するということで話はまとまった。おれ達は六つの死体を埋めて、吹雪が収まるのを待ってから山荘に別れを告げて二人で山を下りた。

そして二人三脚の怪物狩りが始まった。

(オワリ?)

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