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[読書の記録]宇野重規『民主主義のつくり方』(2014-03-25読了)

宇野重規『民主主義のつくりかた』(筑摩書房 2013)

著者よりご恵送いただいた(←自慢

 著者は東大の社会科学研究所の先生で、政治思想史がご専門。
 同研究所における『希望学』プロジェクトはまさに時代が必要とする社会科学の挑戦だと思う。

 本書はとても平易な言葉で書かれていてわかりやすいが、社会の問題を社会の成員が共同して解決するには?という民主主義の原点を問い返す読み応えのある内容だった。

 現在、日本でもそうだが、民主主義政治はやたらとものごとを決めるのに時間がかかったり、コロコロ変わる民意に左右されたりと、デメリットが目に付き不信が唱えられるようになっている。
 著者は民主主義が陥ったこの隘路の原因を、西欧近代政治思想が抱え込んだ「依存への恐怖」に見出す。
 ホッブズにせよロックにせよモンテスキューにせよルソーにせよ、西欧近代の啓蒙思想家はおしなべて個人の平等と自由の実現に必要な国家による保護を訴えていた。
 いっぽうで彼らの政治思想はすべて、合理的で自立(自律)した個人を前提としていた。彼らの言い分によれば、世界の認識(ようは情報収集)や意思決定(思考)などを他者に依存すれば、カルテルやセクトが生まれ、悪を生み出す源になってしまうからだ。この後景にはもちろんヨーロッパが経験した無数の宗教対立がある。

 こうして、人間が生きていくうえで欠かすことのできない、連帯や相互扶助の問題は、公共空間から「私」の領域へと追いやられた。
 これはもちろんドイツ観念論以来の個人の主観に基づく世界認識を基本とする哲学に連なる発想である。
 突き詰めていくと、「無知のベール」(公正な政治的判断を下すためには他者についての情報を知ってはならない)というような非現実的なルールを課すロールズ流のリベラリズムになってしまう。しかしリベラリズムは20世紀において失敗した。リベラリズムに基づいて設計された大きな政府は官僚制度の肥大化や無数の小規模な利害集団の看過といった問題を引き起こし、70年代以降には衰退する。

 また、個人の主観とロゴスへの信頼は、唯物史観に基づくマルクス主義というもうひとつの果実を生んだ。あらゆる経済社会制度を科学的で合理的に設計できると考えたマルクス流の社会主義もまた、20世紀において失敗した西欧近代啓蒙思想の知的子孫である。

 この意味で、19世紀にフランスの貴族出身の政治哲学者アレクシ・ド・トクヴィルが、米国で発見した独特なデモクラシーの発見は時代を先取りするものだった。
 トクヴィルは、中央政府が持つ力が弱い米国における地方自治の形式の特徴を「アソシエーション」の形成に見出した。トクヴィルは、上述したような西欧近代の政治哲学に基づく民主主義社会が危険なのは、個人主義と平等が徹底された結果、どうしても多数意見に従わざるを得ない民主的専制の可能性に常にさらされているからだと考えた。
 この点、米国のタウンシップでは、利害集団がそれぞれ意図的にアソシエーションを作ることで個人が孤立するのを回避し、町のひとが自分自身で自分たちのことを決めていた。

 このような民主主義の土壌は、20世紀になりプラグマティズムという米国哲学の潮流を生み出す。
 プラグマティズムは実践主義などと訳されると誤解を生みやすいが、ウィリアム・ジェイムズ、チャールズ・サンダース・パース、ジョン・デューイなどが確立した、徹底して人間の「経験」に基づいて思考しようという知的態度である。
 赤ん坊が言語や自意識の獲得に先立って世界を認識し秩序だてていくことにかんがみれば、経験は主観に先だち、人間の経験の総体こそが世界を構成しているということになる。そしてこの「経験」は、他者や自分以外のものとの相互作用により成立する、本来的に社会的な様態を持つ。

 こうした世界観を突き詰めると、人間の知は本質的にローカルで(=個人の経験は限定的なので、個人が知りうることには限界がある)、常に誤りうるということになる。そのため、複数の人間と連帯(アソシエイト)し、エラーの可能性を減らしていくことが戦略的に重要になるのだ。
 問題解決のためには、まずは個人では判断を誤りうる可能性を認め、利害を共にする他者と連帯すること。そして実践と経験により、方向修正をしながら少しずつ解決に向かっていくこと。
 プラグマティズムの政治哲学は、民主主義に対するこうした希望的な含意を持つ。そしてこれは西欧哲学の伝統が陥った隘路から脱するひとつのチャンネルであろうと筆者は述べる。最初から合意形成を作ることをがむしゃらに目指すのではなく、偶然に支配された社会のカオスの中から秩序が生成していくプロセスを明らかにすることが重視される。この「偶然から生成される秩序」は、「習慣」と呼ばれ、世の中を変えていく大きな力として、プラグマティズムでは価値が置かれる。

 興味深いのが、こうした米国の知的土壌はウェブ登場以降のソーシャルビジネスの興隆の思想的背景となっていると指摘している点である。
 今日では、共通の関心を持った個人が、SNSやブログを介して、地理的な隔たりを瞬間的に越えて小集団を作り、価値を創出していっている。まさにアソシエーションの形成であろうし、これを可能にするプラットフォームであるGoogleやFacebook、Amazon等等・・を作ったのはアメリカ人だ。

 というわけで、近年のバズワードの筆頭である「ソーシャル」の源流にはプラグマティズムの思想があるのかもしれない。
 筆者はもちろん「ソーシャル」は日本でも形を変えて受容されており、震災後の復興への取り組みなどに現れていると述べる。

 私が思ったのは、この「形を変えて」という部分がある意味危ういのではないかというところだ。
 ひとつには、この「ソーシャル」が単に導入されただけで、日本で米国のような圧倒的イノベーションが起きるかどうか、という疑問だ。90年代以降の日本では、公共政策全体の新自由主義化(中央・地方政府による行政を、企業経営的行政に転換することで、政府行政組織の効率化を計る方向性への転換)により、供給重視の経済政策・労働市場の柔軟化と不完全雇用・社会保障の縮小と市場化を目指す、シュムペーター型競争国家が、政府、企業、サードセクターの協力によって目指されるようになる。
 すなわちそれまで「大きな政府」的政策からの逃走の回路であり「傍流」であったはずの「市場への参加と徹底した市場原理の活用による自己実現」が、いわば社会の「主流」になってしまい、カウンター言説としての機能を弱めた。
 そこで、現代にあっては「市場取引関係」を用いて「市場がもたらす利益・価値」の実現を目指すのではなく、それとは別の「社会関係」を用いて新しい「社会的価値」の実現を求める実践こそが、マスの学歴社会や大企業型のハイアラーキーを相対化することに繋がると信じられている。事実、今日、例えば社会的責任(CSR)経営、BOPビジネス、社会的起業などの実践と、それに関わる非営利市民団体の実践を合わせて、優れた「ソーシャル・イノベーション」、社会革新・変革だとする理解が強まっている。
 したがって起業家たちが最終的に創出を目指すのはもはや自由競争市場における価値ではない。彼らの多くはむしろ、市場とは区別された「社会関係」の中における価値を求めているといえる。

 もうひとつは、日本におけるSNSの受容が、むしろトクヴィルが警告したような多数的専制に繋がっていくのではないかという懸念である。
 鈴木謙介が『ウェブ社会のゆくえ』(NHKブックス 2013)で指摘しているように、一見日本語圏におけるウェブ上のコミュニケーションはいいね!やスタンプの送信などで言語機能を代替する方向に向かっており、言語に基づいた近代的合理性から次のステージへ移行しつつある。
 いっぽうでこの移行が進んでいる結果、震災後の飛語・流言や首相官邸前デモ、最近では小保方事件にも現れていると思うが、、、タイムラインに流れてくるハイパーリンクだけをリンク先も見ずに共有する類の行為が簡単に繰り返される結果、世論が一部の意識高い系()の言動に導かれ、きわめて衆愚政治化しやすくなっているのではないか・・・という疑問が浮かぶ。

 日本におけるソーシャルと米国におけるソーシャルの違いを把握し、この違いをどう制度設計に活用していくか、引き続き議論を深めていくことが必要だろう。

 トクヴィルとかプラグマティズムの説明は入門編的には本当にわかりやすくて胸にすっと入ってきてさすがとしか言いようがない。

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