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【エッセイ】悲しいとか寂しいとかとは違う涙


連休の只中、5月2日の夜に、父が逝去しました。
享年73歳、胃がんでした。


夕方に母から危篤の報を受けて、東京から急いで福岡へ。
福岡空港に着いたのは夜10時過ぎ。飛行機を降りてすぐ母に電話をすると、
「お願い、急いで。お父さんが待ってくれとる」

待ってくれとる、という言葉が何を意味しているかは、すぐ分かりました。
タクシーで急ぎ病院に向かう。
はやく、はやく。待ってくれとる。

病棟に着き、急いで受付用紙に記入しようとすると、待ち受けていた看護師さんが「受付いいですから!」と駆け足で病室に通してくれました。

病室には、母と兄に囲まれ、横になる父。
顔を覗く。目は閉じていて、口は少し開いている。
寝顔みたいだけど少し違う。「命が動いていない」と、そう感じました。

「まだ聞こえるかもしれません」と、看護師さん。
声をかけようにも、何がいいか。
頑張って!とかかなと考えたけれど、父の顔を見た瞬間、もう戻ってこない、と分かっていました。それに、もうたくさん頑張ったもんね。

だから、「ありがとね、待っててくれて」と伝えました。

父の手を握ろうとすると、手の甲にいくつもある赤いあざに気づきます。
「私がね、握りすぎたとよ」と母。
がんで弱った父の手を、何時間も母が握り続けるから、内出血しちゃったらしい。

でもそのあざは、夫婦愛そのものに見えました。

午後11時10分。
医師が死亡を確認。



葬儀屋さんに連絡し、父とともに病院を出たのは深夜2時。葬儀場に到着して、親族控室に遺体を運び入れたときには3時を過ぎていました。

母も兄も昼から病院にいたので、すごく疲れていました。だけど父ひとり放置するわけにもいかないので、ふたりには一旦家に帰ってもらって、僕ひとりだけ葬儀場に泊まることにしました。

そこからお通夜までの二晩は、僕と父、ふたりきりでの寝泊まりとなりました。
「ひとりで泊まって平気?」と周囲が心配してくれましたが、ひとりとは思わなかったし、それに少し嬉しかった。

葬儀屋の親族控室は、きれいな和室に立派な風呂もあり、まるで旅館みたいでした。
これまで父とふたりだけで旅行したことがなかったので、そのときはじめて、父子だけで温泉旅行に来たような気分がしていました。それが嬉しかった。

どんどん白く細くなっていく父と、2泊3日、最後の親子旅。



通夜の前日、父の昔のアルバムを兄が持ってきてくれました。押入れの奥に眠っていたのを見つけたそう。

少年時代の父の写真を見たのは、実はそれが生まれてはじめてでした。

そもそも僕は最近まで、父がどんな少年期を過ごしたかすら、全く知らなかった。知らないということを自覚することすらなかった。

それくらい、僕は父に無関心でした。

べつに嫌いではなかった。でも大好きかといわれると、そうでもありませんでした。
父が、僕の人生の障害になることも、目標になることもなかった。
良くも悪くも僕らは、ただの父と、ただの子でした。

口数が少なく、焼酎を飲んで野球を観るだけで満足そうだった、欲の薄いおじさん。
僕が社会人になって実家に帰ったときも、父との会話は数言だけ。それもホークスの近況とか薄い内容ばかり。

父が僕にいろいろ質問することもなく、逆もまたありませんでした。

父子の絆は、ダランとたるんでいた。
結び直すのを忘れた靴紐みたく。



これまで数十年、病気も怪我もほとんどなかった父。それが、今年2月にいきなり胃がんを宣告されます。

そこからは悪いニュースの連続。
3月に、ステージ4の末期がんであることが分かり、4月には、もう抗がん剤治療すらできない状態であることが分かり、気付けばあっという間に終末病棟。

家族の誰一人として気持ちが追いついていない中で、本人だけは、「なるようになる」と平常運転でした。

この人には未練がないのかな。このまま逝って幸せなのかな。
もしかしてすごく強い人なのかもしれない。

どんな気持ちなの。何を考えてるの。

短すぎる余命宣告を父が受けてはじめて、父という人をまったく知らないことを僕は自覚します。ほんと遅すぎる。

73年の父の生涯の中で、僕が共に暮らしたのはたった18年。僕が生まれる前のことはもちろん知らず、僕が実家を出た後も、今何の仕事してるかくらいしか分かっていませんでした。

ほんの一部しか知らなかった、父という人間。
いったい、どんな人生だったんだろう。

末期がんが発覚した後くらいから、父の人生について情報を集めはじめる。
本人はもともと口数が少ないうえに、長話も病気で難しくなっていたので、母に少しずつ父の昔話を聞いたりしました。
また通夜と葬儀の期間中にも、埋もれていた過去のアルバムをみたり、集まった親戚の話を聞いたりして、少しずつ、父の生涯を理解していきました。

それがどこまで正しいのかはわからない。
あくまで、「僕の頭の中での”父の人生”」でしかありません。

そうだとしても、誰かに伝えて、残しておきたいと思いました。



昭和30年に福岡で生まれた父。
兄と妹、三人きょうだいの次男。

父の父、つまり僕の祖父は、とてつもなく良い人でした。
いつも笑っていて、人の頼みを断るという選択肢を持たなかった祖父。

人の良さも度を越えるとよくないようで、知人の保証人になって借金を背負ったり、来るもの拒まずで他の女性と関係を持ってしまったり、祖父の「バカに良過ぎる人柄」のせいで、家族はいろいろ苦労をしたそうです。

祖父が肩代わりした借金のせいでいちど家計が大きく傾き、そのせいもあって祖母は祖父に対して強くあたるようになっていきます。

祖父へのあたりが強く、息子に対しても何かと口うるさい祖母のことを、父は苦手だったらしい。でも祖母は祖母で、口下手で人付き合いの苦手な父が、とにかく心配だったようです。

つい最近知りましたが、工業高校を卒業した後、父はいちど東京に出てきたことがあるそうです。配管工のような仕事をしていたらしい。

しかし東京でうまく人に馴染めなかった父は、心に傷を負います。
そのころ福岡で新聞販売所を営んでいた祖父は、そんな父を見かねて、「うちに戻っておいで」と声をかけます。そうして父は、上京後わずか数年で福岡に戻り、祖父のもとで働き始める。

そのときはじめた早朝の新聞配達という仕事は、その後の父の人生に深く染みこんでいきます。

祖父が販売所をたたんだ後も、僕が成人して家庭が落ち着いた後も、父はなぜか新聞配達だけはやめず、じつに50年以上、胃がんが見つかる前の日まで配達を続けました。

父にとって新聞配達とは何だったのか。
それはもう分かりませんが、深い意味を持っていたことは確かです。


話を父の青年期に戻します。

福岡で家族とともに働きはじめた父でしたが、実家の販売所という狭い世界から出ようとせず、半分引きこもりのような状態が数年続いたそうです。
そんな父が心配で堪らなかった祖母は、地域の青年会のような集まりに父を引っ張っていきます。

そこで出会ったのが母でした。
佐賀で生まれた母は、10代で母の母を亡くし、さらに20代で父も亡くします。
早くに両親を失ったあとも、福岡に出て気丈に働いていた母。そんな母を心配した知人の紹介で、父と母は出会いました。そしてふたりは結ばれます。


兄と僕が生まれて4人家族となっても、父は器用な大黒柱ではなかった。
欲が薄く、人付き合いも苦手な父。朝は新聞配達、昼はトラック運転手として働いていましたが、「バスの運転手とかもっと給料の良い仕事をしてほしい」と母は頼みます。しかし父は、ひとりきりで黙々と働けるトラック運転手という仕事を変えようとはしませんでした。

だからずっと貧乏だった我が家。
明日食う飯に困るほどではなかったけれど、風呂にシャワーもない古い平家に住み、習い事もろくにできず、クラスメイトが持っていた色々なものがうちにはなかった。

経済力がないのに必死になろうとしない父のことを、兄は心底嫌いだったようです。
だけど僕は、父を嫌いと思うことはなかった。

小さな頃に何度かだけ怒られたことがありましたが、それ以外で父が不機嫌になったり、急に怒り出したりすることはありませんでした。
それに今になって思うと、父が怒るのは僕らが母を深く傷つけたときだけでした。

誰かの悪口をいうことなんて、本当に一度も聞いたことがない。

とにかく、自分可愛さで機嫌を壊すことがない静かな父に、僕はどこか安心感を覚えていました。

僕は10歳くらいまで小児喘息とアトピー性皮膚炎を抱えていて、そのせいもあり、ぜんぜん寝付けない夜が何度もありました。
そういうとき、天井の木目を見ながらじっと朝を待つ。暗くて辛い時間。
そんな長い夜の終わりを告げてくれるのは、新聞配達に出かける父のカブのエンジン音でした。
半睡半醒のどろどろした世界から現実に引き戻してくれる、早朝4時のエンジン音。

父に対する安心感は、そんなところからも生まれていました。


やがて兄も僕も実家を出ます。
そこから後の父のことも、知っているようであまり知りませんでした。

僕が成人してまもなく、父が勤めていた会社が倒産してトラック運転手を続けられなくなります。(僕はそんなことすら知らず、ただの早期退職だと思っていた)

ハローワークで転職先を探しますが、年齢的にトラック運転手は厳しく、そのかわりにデイケア施設の送迎バス運転手という仕事に出会います。

これまでトラックの中で孤独に働いてきた父は、還暦近くになってはじめて、人を乗せて人と一緒に働く仕事に就きました。

デイケアサービスのスタッフは若い世代の女性が多く、「やっていけるかしら」と母は最初不安を感じていたそうです。
しかし心配はいい方向に外れ、父は新しい職場でどんどん愛されます。

口数は少ないけど、真面目で、いつも機嫌が良い父に、同僚の方々は僕と同じく安心感を見出してくれたようです。
また、元気のない同僚に積極的に声をかけたり、何かと面倒見も良かったらしく、これは僕も意外でした。父にそんな一面があったなんて。

70歳を過ぎて送迎運転手ができなくなっても、事業所の計らいで掃除スタッフとして再雇用してもらいます。そのくらい愛されて、必要とされていたみたい。

そうして、生涯でいちばん人との縁に恵まれた職場で、父は最期まで働きました。
これは本当に、本当に幸福なことだったと思います。

とにかく真面目な父は、すこし体の調子が悪くても仕事を休もうとはしなかった。
だから、母に懇願されて病院に検査にいった前の日が、父の最期の出勤日になりました。


父の入院中、いちど同僚の方が見舞いに来てくださいました。
僕もちょうど病院にいて挨拶をしたですが、そのときもらった言葉が強く残っています。

「○○さんの息子さんなら、きっと、とっても優しい人なんでしょうね」

涙が出ました。
父がそのくらい人に愛されていたんだとわかって、嬉しかった。
残念ながら僕はそんなに優しい人じゃないけど。



お通夜の椅子をいくつ用意するか、という話を葬儀屋としていたとき。

母は「親族分も合わせて60くらいかな」と言って、僕は正直、父の葬儀にそんなに人が来るか?と思いました。

だけど、通夜当日、椅子はぜんぜん足りませんでした。

たくさんの花に囲まれて、たくさんの人に送られた父。遺影の写真は、デイケア施設の制服で笑っているものを選びました。


葬儀がひと段落したあと、忌引き休暇中にひとりで福岡ドームに行きました。
ホークスが大好きだった父の写真をチケットホルダーに入れて野球観戦。
今更だけど、何か思い出を増やしたくて。

僕と父との思い出は少なかった。お互いの理解も浅かった。嫌いでも好きでもなく、どんな人かもよく知らなかった。

だけど最期に父の人生を知ることができ、そして、父の息子で良かったと、心から思えました。

遅過ぎるけど。生きてる間に気づければ良かったけど。それは本当にごめんね。



まだ父の写真を見ると、びっくりするほど簡単に涙が出ます。

でもそれは、悲しいとか寂しいとかとは、ちょっと違う涙のように思えます。

楽ではなかった73年の旅路を、健気に黙々と歩き抜いた父が、愛おしい、誇らしい。
そんな父の素敵さを、いろんな人が気づいてくれていたことが、嬉しい。

たぶんそういう涙。ちょっと言語化が難しいけれど。

でも、生涯けっして忘れない気持ち。


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