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松屋の牛めし

いろいろなことを考えすぎて、何も考えられていない気がする。全てに意味などない。生きることにすら、意味などないと思うけれど、何かと意味を求めたくなってしまうのは、きっとそこに意味があれば、ふわふわした気持ちに芯が通るからだろう。

信頼とか、お金とか、夢とか、繋がりとか。大切にしたいことはたくさんあるし、どれも必須なようだけれど、結局のところ愛がほしい。うへぇ、何言ってんだコイツ……って思う人もいるかもしれない。愛を語れるほどの恋愛経験もなければ、そもそも私は人を愛する(人に愛される)感覚がどうもボヤッとしていて、いまいち理解できていない気がする。誰か教えてください。愛とは何か。

じゃあなんで、愛がほしいなどと言うのか。私は結局のところ、愛のもとに突き動かされている人間のような気がするからだ。グラビアだってそう。愛があったからここまで来られた。今、私の目の前に広がっている光景は、私自身が愛を持って接したものたちばかりな気がする。愛する感覚とは、愛の証明とは、やっぱり言葉にするのは難しいのだが、愛があれば私はスイスイと、どこまでも泳いでいける気がするのだ。

愛がほしいとは、多くの人から愛されたいということではない。もちろん、愛されるに越したことはないけれど、愛されすぎるのも大変そうだ(贅沢な悩み)。愛に溢れた人間でありたい。そんなところだろうか。愛に縛られ、愛に翻弄されるのはゴメンだが、愛に溢れていたいとは思う。愛。愛。アイーン。

面と向かって、なかなか伝えられない愛を手紙にしたためる。なんだかんだ、一人でいる時間が一番好きで、その次に誰かと二人でいる時間が好き。それよりも大人数でいる時間は、自分じゃない自分が顔を出すようで、一人になったとき「おいおい、おいら大丈夫かい?」と心配症の自分が顔を出す。文字を読んだり、文字を書いたりして、自分を納得していく。恐らくだけど、人の数ほど感情に揺さぶられてしまうから、自分じゃない自分がひょっこり出てくるんだと思う。それもまた自分ではあるけれど、多分、みんなそんな感じなんだよね。いろんな顔があって、いろんな自分があるんだよね。どんなときでも変わらない自分を貫ける人もいるだろうけれど。ザレゴト。忘れたくない、いろいろなこと。できることなら、いろんなことがしたい。はやく、海外旅行にいけるようにならないかなあ。

なんの話してたんだっけ?とりあえず、松屋の牛めしは美味いぞ。

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