人生に大切なのは余韻,それは遊び
「欲しいのは余韻なんだよね~」
昼下がりの帰り道,わたしはご近所ママにそうつぶやいた。
この日は,とある講座(A講座としよう)に出た帰り道で,ご近所のママと帰り道が一緒になった。
ご近所ママはすでに別の講座B(としよう)に出ていて,わたしもその講座に出ようか出まいか保留をしていた。
なんか引っかかるのだ。
そのポイントがご近所ママの講座B の感想を聞いて,冒頭の「余韻」なのだ!と,気づいた時,合点がいった。
講座Aの先生は,先生歴が10数年以上の大ベテランで教育業界に長く身を置いており,1を聞けば10返ってくる打てば響きまくりの痒いところに手が届く返答をなさる。子どもの通っているおけいこの先生も同じだ。
わたしも先生業界の端くれにいるが,先生というものは,「わからない」ことは「わからない」ともちろん答える。だけど,自分の知識を総動員してできうる限りの回答を伝えようと努力する。それは努力でもなんでもなくて,先生としての最低ラインのことだとわたしは思っている。
もちろん,講座Bの先生もある一定の知識を与えてくれるのだが,その知識は支払った料金以外のことは,教えてくれない。
体験会ならば体験レベルの知識だけ。松竹梅の3段階に例えるならば,体験会の知識は梅。それなら,まぁよい。
更に上位クラスの竹に進むと(わたしはここに出ようか否かで留保していた),竹レベルが待っているのかと思っていたら,なんと内容が梅講座と8割同じだったと判明!
なぬー!竹の意味ないじゃないかぁ。何そのシステム設計は?
実にシビアだ・・・。
おそらく,入門講座や体験ぐらいの軽い講座だからよいとお考えで,育てるエネルギーをかけるのはもったいないとお思いのかも知れない。バックエンドに控えている高額講座に出る生徒ならば,もっと親身で情熱的な先生対応をしてくれるのかもしれない。
だけども,それは実に先生としてもまた,ビジネスとしても残念な姿勢だと思う。
だって,次に繋がらないもの・・・。その先生と感情的な交流をしたいと思わないし,その先の見返りがあるとも思われないから,それ以上期待したくない。
幸いというか,わたしのまわりの先生方は先生マインドを存分にお持ちの方ばかりで,梅講座なのに松レベルのおもてなしや対応をなさる。
その時は損したと思うかもしれないけれど,教育ってすぐの見返りを求めないある意味ボランティア的な情熱も求められる。
教育の効果なんて,10数年後に出るなんてザラだ。塾だったら,合否結果かもしれないけれど,プロセスだって十分な教育だ。
話をバックエンドに流れない生徒問題というビジネスの視点に戻そう。
はっきりいって,教育も商品だから,講座には,何らかの「期待値」をクライエントに抱かせねばクロージングは成功とはいえないだろう。
先生の個性で,クールな対応といえばそうなのだろうけれど,なんだか対人関係に余韻がないよなぁ・・・,とわたしは思ってしまう。
余韻って大事だ。
杓子定規な判で押したような対応ではなく,次の展開を想像させるような余韻のある対応。「余韻」あるいは「余白」。つまり,ちょっとした「遊び」だ。
それって,臨床的には「社会性」と言われ,いわゆる,対人関係づくりのコツに入る。
言葉を字義通りにとらえておしまい!ではなく,裏に隠れた文脈や状況を読み取ったり,相手の顔色や態度から読み取るようなそういう関係性を読む力は,社会性なのだ。
わたしたちは,社会に生きているから,この力が弱いととても苦労する。だけども,職業を選べば,よいわけで,社会性をあまり必要としない仕事に就けばよいだけだ。
だけども,よい人間関係を築けるかは,生きていくうえでとても大事なサバイバル力になるし,幸福度も高まるだろう。
良い人間関係を気づけることはとても大事な力で,今,家庭教育界隈でホットな「非認知能力」とも関わる。
今までは,わかりやすい表に出る知識(算数など結果が目に見える)の認知能力ばかりが知能としてとらえられてきたけれど,社会性や問題解決能力,レジリエンス(経験からの復活)のような非認知の力も大事なのだ。
遊びは余裕がなければ生まれない。
遊びは大事なのだ!
論文や所見書き、心理面接にまみれているカシ丸の言葉の力で、読んだ人をほっとエンパワメントできたら嬉しく思います。