教育心理学者が公園難民になった話
いない、いない、いない!
どこにもいない!
別にイナイイナイバーをしている訳ではない。
わたしは、電動自転車のバッテリーを気にしながら、急いでいた。
オットー先生(夫)がコンビニにビールを買いに行くぐらいしか、この電動自転車は稼働されない。
わたしは殆どこの自転車に乗らない。2度もこの自転車でよろけてこけたから、乗りたくないのだ。
1度目は、小学生の息子をこの電動自転車の後ろに乗せて、狭い橋の下の坂道を登っていた時、よろけて転んだ。
2人とも道に投げ出されて、わたしはタイツが破れて膝が見えた。息子は、幸い怪我はなかった。
ありがたいことに、通行人の多い道なので、親切なおじさんやおばさんが助け起こしてくれた。
2度目は、同じ日。倒れて助け起こされたその道なりに、お花屋さんがある。
「お花屋さんに寄ろうよ」、と花好きな子どもが言うので、寄った。
そして、子どもを後ろに乗せて、Uターンしようとハンドルを切ったら、重た過ぎて、よろけて、また、倒れた。
そして、悟った。片手でヒョイっと抱えられない男児を電動自転車の後ろに乗せるには、もう危険レベルだと。
以来、電動自転車はソロ走行することに決めている。
だが、そのチャンスはほぼない。常に、子どもたちを引き連れて、カシマール一家大移動だから。
そんな感じのわたしの電動自転車ライフなので、管理はオットー先生に任せきり、バッテリーが30%しかないことに、自転車のスイッチを押した時に気づいた。
だが、そんなに乗らないから、よいだろうと見切り発車してしまった。これが後々に響くとは、その時はまだ知らなかった。
そろそろと消費電力を気にしながら、わたしはペダルを漕いだ。
行先は、子どもたちの運動会。
コロナの影響で、いつもの会場が使えず、近所の公園に平日に1時間だけ行うことになったのだ。
見えてきた!大A公園だ!
わたしは、広い公園を見回す。
いない。
いた!
近づいたら、全然違う子たちだった。
どこよ?どこよ?うちの子たちのこども園は?
クラスのLINEを見ると、ママたちはもうすでに集まっているようす。
焦る。
公園の名前を見たら、大A公園じゃなかった。小A公園だ。
紛らわしい名前つけんなよ!
腹を立てながら、わたしは、自転車を走らせる。
大A公園から北へ直進する、目指すはわたしの脳内イメージの大A公園。
ついた!
そして、またしてもいない!
想定内だ。
公園名を見る。
B町公園。
だめだ、かすりもしない。
もう、こうなると、しらみつぶしに、子どもの口から、聞いたことのある公園の名前をネット地図探す。
今度は保育園近くのC公園に、自転車をさらに北に走らせる
漕いでゆくうちに、刻々と時間は過ぎ、バッテリーも残り10%になり、ペダルが重たい。
C公園に着いた。
いない。
いいのだ。これもわかっていた。
LINEで子ども子ども園ママに聞けばいいのに、脳内で回線ショートしているときは、そういう閃きさえ浮かばない。
バッテリーも切れるし、一旦、家に戻ることにした。
この時点で、残り30分。
自転車を家におき、改めてお便りを確認した。
慌てているのでお便りも置いて出ていた。Webお便りも安全を考慮して、公園名までは書いていないので、やはり紙媒体でしか、わからない。
LINEで聞けばいいのに、無意識に恥をかくのが嫌で聞けないという、羞恥心が邪魔をしていた。
さらに、この日は、朝の瞑想をサボっていたから、前日の脳のゴミも溜まって、脳の神経伝達も芳しくないはずだ。
「物知りと思われたい」「知らないとは言えない」という、ちっぽけなこの羞恥心は未だに克服できないものである。
さて、お便りを読む。公園名はやはり、大A公園だ。
バッテリーも切れているし、歩いていけば、なんとか間に合いそうだ。
大A公園は、前に住んでいた家のすぐ近くだし!
念のため、地図アプリで確認もした。
大A公園にギリギリ着いた。
え?ここ、1番最初に来た公園だよ?やっぱり、いないし!
もうわけがわからない。泣きたくなった。
もう一度、地図アプリを見た。
ぴょこんと立っている赤いブラックは、わたしが今いる公園のまま。
でも、地図と公園を脳内イメージと重ねると、微妙になんかズレている。
あ!
50メートル先のあの公園!あれが大A公園なのかも?
小走りに急ぐと、遠くになんか見たことのあるシルエット。
園長先生だ!
やったー!ここが大A公園だ!
「帰るよー」
そこに、飛び込んで来た、子どものクラス担任の先生の声。
非常にも、全ての競技は終わっていた。
わたしは、こそこそとバレないように、元来た道に引き返した。
なんか、悔しくて、ここまでやった自分にご褒美をあげたくなった。
なので、行列のできるパン屋でパンを買って食べることにした。
その前に、高品質で安い独自のスーパーにも寄って、晩ご飯のおかずをゲットする。
今日は、これから、出かけるから、晩ご飯を用意する時間がないので、こういう日のご飯は、シンプルに素材の力が生きるお刺身なのだ。
重たい買い物袋を持って、パン屋に向かう、視界の隅に、水色の帽子が見えた。
まずい!
こども園に戻る集団とバッティングしたら、運動会にも来ないで買い物を優先したアホママ認定されてしまう。別にそれでもよいが、気まづい。
慌てて、パン屋に飛び込む。
パンを選んでいる間に、子ども集団は、通り過ぎた。
夕方、子どもにお迎えに行った。
他のママたちは、運動会の話をしている。先生たちも気づかって、見に来れなかったと思われている(一応、行ったが)わたしには運動会の話はしない。
わたしの子どもも一切、運動会の話はしない。
家について、洗濯機に体操服を入れていると、子どもがとことこやってきた。
「ママが運動会来なかった。ライオンさんもゾウさん(クラスの名前)もママたち来ていた」
子どもの目にみるみる涙が溢れてきて、つっーと頬を伝った。
きゅっと子どもを抱きしめた。
「ごめんね。ママ、公園に行ったのよ。もう帰る頃だった。あーちゃんが玉入れしてるのもちょっとだけ見れたの(ちょっとうそついた)。頑張ってたね。手をふればよかったね。寂しかったね。許してください」
しばらく、肩に顔を埋めていた子ども。
そんな空気を察した他の子たちも、洗濯室に集まってきた。
子どもだけじゃなく、飼っているインコまで連れて来た。
「ピィ」
インコが鳴いた。
「いいよ、ママ、許してあげる」
子どもはインコのそばに行き、インコと遊びに行ってしまった。
インコに救われた。わたしも子どもも。
翌朝、オットー先生にこの顛末を話すと、にやっとして言った。
「普段、子どもを公園に連れて行ってないかがバレるね。俺は、大A公園って、どこだかすぐわかってたよ。あのスーパーの近くのとこだろ」
そうなのだ。
わたしは、子どもと遊ぶのは好きだが、公園に連れて行くのは好きじゃない。買い物帰りに、名もなき小さな公園に寄ることは、まぁまぁあるけど、公園に行く目的だけでは行かない。
だから、公園で子どもと遊ぶだけの経験は、3人も子どもを産み育てていても、両手で収まる。
だからと言って、今後、公園にわざわざ行くことはない。
公園で無目的に遊びつくしたから、もう、行きたくない。
例え、それが子どもの健康増進と成長のために有効であることが、アカデミックな知識上わかっていても、わざわざ行きたくない。
買い物帰りに寄るくらいでちょうどいいのだ。
子どもの運動のために、わざわざ、親がやりたくないことをやる必要はない。
やりたければやればいいだけの話だ。
論文や所見書き、心理面接にまみれているカシ丸の言葉の力で、読んだ人をほっとエンパワメントできたら嬉しく思います。