_表紙_ジャムおじさんを殺したい

百歩蛇(ひゃっぽだ)『ジャムおじさんを殺したい』②

本編①はこちらから。

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 妻が喀血したのは僕が見舞いに行った帰りのことで、午後三時十二分だったという。

「急いで来て下さい。奥さんが血を吐きました」

と携帯電話越しに聞こえる冷静な看護婦の声に、僕は何だか無性に腹が立った。もっと慌てろ。この世の終わりが来たと思え。そう言ってやりたかった。しかし、そんな言葉を出す前に、僕は病院目がけて自転車を漕いでいた。苦しそうにしている妻の顔が脳味噌を埋め尽くしていく。頼む。僕のいないところで死なないでくれ。そう祈りながら全力で坂道を登る。病院に着き、妻の病室に入ると、妻はベットの上で眠っていた。

「今眠ったところですよ」

まだ息の荒い僕に対し、人工呼吸器をつけられた妻の息はひゅう、ひゅう、と弱々しかった。僕は妻の手を握った。ひんやりとして汗ばんでいる。

「結構な量の血を吐いてらしたので、再度精密検査をして手術が必要になります」

手の甲は幾度も針を刺されたせいで赤黒く腫れ上がり、真っ白な手の中で、まるでそここそが妻を苦しめている病巣ではないのかとさえ思った。

「意識が戻り次第、検査を行いますので。今日はどうされます?」

妻の手首の傷。左腕に平行に並んだ六つの傷。僕が知らないところで死のうとした回数。知らない場所で知らない虫が鳴いている。

 僕が事件を起こしてから、うちの商品は人間の肉を使っているなどという根も葉もないような噂が流れ、売行きは急激に落ちていった。売れ残ったカツサンドやコロッケをお父さんと二人で食べた。

「勇人は悪くないんだからな」

お父さんは言っていた。ガイコツが喋ってるみたいだった。

 それでも常連さんはいて、

「大変だったでしょうけど頑張って下さいね」

などと励ましの言葉をもらうこともあったようだ。ある日、お母さんから手紙が来て、お姉ちゃんが志望校に受かった事や、いつか家族が一緒に暮らせる日を願う内容の事が書かれていた。お父さんはその手紙を大事そうに戸棚にしまった。時々夜中にそれを読み返しているのを見たことがある。七年後、遺体となったお父さんの懐からその手紙が出てきたと刑事さんから聞いた。

 週に一度、海に近い潮のにおいのする病院に通っていた。医師によるカウンセリングを受けたり、精神保健福祉士と学校への復学の話をしたりする。診察を受ける火曜日の午後一時は何故かいつも晴れていた記憶しか無く、お父さんの運転する車にはいつも白っぽい光が差し込んでいた。

 精神科の待合室はクラシックをオルゴール調にアレンジした音楽が流れ、壁には抽象画が掛けられている。ピンク色のベンチソファーに僕とお父さんは並んで座る。平日の午後だからか、いつも人はまばらで、大きな窓から差し込む陽光が眠気を誘う。お父さんも眠そうで、しきりに欠伸をしていた。

 担当医に様々なことを聞かれる。僕はしっかりと考えて回答をしているつもりなのだけれど、お父さんの強張った顔を見ると、やっぱり変なことを言っているのかもしれないと思った。

 診察室を出ると一階にある相談所に行く。ここで精神保健福祉士と会話をする。復学する手順などを丁寧に教えてくれるのだけれど、僕は誉田さんのところに行きたかったので適当に話を流していた。口が臭いのも嫌だった。

 病院の傍にある薬局から出ると、日がだいぶ傾いていて、とても寒かった。帰り道、フロントガラスにスッと雪が降りた。次々に舞い降りてくる雪に、僕は目を閉じた。サイレンを鳴らした救急車が対向車線を走り抜けていった

 大音量で流れるラジオ体操の音楽がまだひんやりとした空気を震わせている。誉田さんと僕と工藤さんは、朝日を浴びながらラジオの爽やかな号令に従って身体を動かした。やがてラジオ体操第二になると、誉田さんは駆け足でラジオを止めに行き、二言三言朝礼の挨拶をして、それぞれの現場に着く。誉田さんは旋盤、工藤さんは表面処理と検査、そして僕は誉田さんのペットの餌やりを行う。

 誉田さんは一般的に珍しいとされる動物が大好きで、工場に併設してある自宅はたくさんの水槽で埋め尽くされている。今日はまずヘビたちに餌をやる。

 二階にある冷蔵庫の冷凍室からピンクマウス八匹とアダルトマウス十五匹を取り出して、洗面台にあるタライに入れて二時間待ち、自然解凍させる。その間にタイガーキャットの三郎の水槽のメンテナンスを行う。二時間経って冷たい血のにおいをさせたマウスたちを爬虫類室まで運び、手前から順番に置いていく。ジャングルカーペットバイソンの健司にはアダルトマウス二匹、アフリカタマゴヘビの洋子にはピンクマウス三匹、といった具合だ。それが終わったらレークランド・テリアの小太郎の散歩がある。尻尾を振って歩く小太郎を前に、僕は工場の近所を歩いた。誉田さんと初めて会った日のことを思い出しながら。

 「うちに来てみないか?ねじの工場やってるんだけど」

雨の日だった。

「勇人に話があるって人が来た」

とお父さんが言った。その人は雨だというのに傘も差さず、短く刈り込んだ金髪を光らせて立っていた。彫りが深く、目尻の下がった目でじっとこっちを見てそう言うのだった。

「うちで作ってる鉄郎っていうねじだ。このねじは宇宙にも行ったことがある」

小さな黒いねじで、鈍く輝いて見えた。その人はねじと名刺を置いて帰っていった。それが誉田さんだった。

 昼休みになって、誉田さんと工藤さんが工場から出て来た。僕は冷蔵庫から烏龍茶を取り出して二人の元へ向かっていった。

 十九歳の冬、僕は傷害致死の現行犯で逮捕された。被害者は誰からも愛されるような人柄の二十歳の女性で、僕はそのことを何一つ知らなかった。

 道を歩いていたら身体の中に隙間が出来てしまい、何とも心地が悪く、その内に隙間はどんどんと広がっていき、気がつくと僕は空洞になっていた。何とかしてこの空洞を埋めなくてはならないと思ったので、まずスーパーで包丁を買って自分の腹を裂いた。だらだらとヘドロのような血が流れて、白い雪が赤く染まった。腹から膿を出すように腹筋を収縮させて誰かが来るのを待った。すると後ろから

「大丈夫ですか?」

と声がした。

「すいませんが空洞なので何かあなたの中を貰ってもいいですか?」

というようなことを呟いた気がする。後のことはもう覚えていない。ただただ視界が狭くなり、だんだん身動きが取れなくなって、気がつくと拘束ベルトで縛られて、蛍光灯を見ていた。腹がしくしくと痛み始めた。

 僕は裁判で被害者の女性のお母さんが泣き崩れた姿が忘れられない。

「自慢の娘でした」

と声を震わせて両手で顔を覆いながらその場にしゃがみ込む動作に現実味が無くて、ドラマを観ているようだったからだ。人間は本当にこんな風になるんだ、と思ったのを覚えている。僕は心神喪失状態にあったとされ、無罪になった。それから約十ヶ月間、僕は海辺にある精神病院に入院することになった。そこで妻と出会った。

 この家は妻のいる病院と誉田さんの工場のちょうど中間辺りに位置している。

「うちの母方の婆さんの家なんだけどボロくて売りに出せないんだよ。良かったら使うか?」

僕はその場で住むことを決め、この家にいる。築四十年以上の木造平屋建てで、今の季節は隙間風がひどく、外にいるのとあまり変わらないくらい寒い。

 大きな住宅街に程近いこともあり、この家の面する道路は結構な車や人が行き交う。それを双眼鏡で眺めるのが僕の休日の使い方だ。主に目殺を行っている。

 若い茶雌が二人、自転車に乗りながら会話をしている。頭の中でいわくつきのショットガンの引き金を引くと、二人の頭蓋が柘榴のように砕け散る。これはかなりの大物だ。急いで玄関を出て、茶雌二匹分の肉片を回収する。すると何かが目に入って痛みを覚えた。マフラーを改造した車が爆音を残して脇を通り抜けていった。僕はその車に乗っていた大学生四人も目殺した。しんとした静寂が彼らを襲っている。それで良かった。

 お父さんの遺体の第一発見者となった僕と誉田さんは、刑事二人に当時の状況を色々と聞かれ、病院の安置室でお父さんの死に顔を見る頃には既に午前零時を回っていた。

「いろいろと疲れたな」

と誉田さんが言い、僕はそれに頷いて、長い沈黙が始まった。

 お父さんの顔は紫色に膨らんで、目玉が少し飛び出ていた。首にはくっきりとロープの痣が出来ていて、ああ、と思った。

「やっぱり僕のせいだな」

 葬儀は実家でとり行われた。喪主はお母さんが務めた。納骨を終えた後、お母さんは挨拶で

「これでようやく家族が一つになれました」

と言った。お母さんもお姉ちゃんも親戚の人間も、みんな目に涙を浮かべながら僕を見ていた。そんな気がした。

 お父さんの骨を墓に納めて、親戚の人間が帰っていった。居間でテレビを観ていた僕を、お母さんは平手で殴った。

「あんたさえいなければこんなことにはならなかったんだよ!この人殺し!気違い!」

お母さんの手は止まることなく僕を叩き続け、お姉ちゃんに押さえつけられるまで続いた。お姉ちゃんに両肩を持たれたお母さんは力無くその場にしゃがんで泣き始めた。悲鳴にも似たその泣き声はしばらく止むことはなかった。お姉ちゃんはお母さんの背中をさすりながら僕を睨んでこう言った。

「ねえ、少しでいいから私たちの立場を想像してみてよ。少しでいいからさァ」

僕たちがまた一緒に暮らすことは無かった。

 全力で自転車を漕いでいた。夏の日差しが全身に浴びせかけられて、Tシャツはすでにぐしょぐしょだった。妻が生き返った!妻が生き返った!それは僕が退院した次の日のことだった。

 妻の顔を見たら、何か自分も生き返ったような気がして思わず涙が出た。妻はベッドの上でにっこりと笑みを浮かべて

「おかえりなさい」

と言った。

「おかえりなさい」

と僕も言って、互いの顔を見つめ、笑った。早く退院してまた一緒に暮らそう。うん。今花壇にヒマワリが咲いてるよ。ああ、見たいな。今度写真を持ってくるから。うん、楽しみにしてる。妻の首にはぐるりと太い縫合痕が赤黒く光っていた。

 いつか誉田さんはこんな話をした。

「五十万件に一件あるかどうかなんだとよ。心神喪失で無罪になる奴って。そんな奴がこの町に暮らしてると思ったら、何だか気になってよ。なんとかしてうちに来させたかったんだ」

今思えば、誉田さんは僕を珍しいペットみたいな感覚で連れて来たような気もする。しかし、現に僕を正社員として雇い、給料を払ってくれ、さらに僕や妻の医療費も肩代わりしてもらっている。感謝されるのを嫌う人なので口には出さないが、本当に何度お礼を言っても足りないくらい誉田さんには感謝している。

 「チェーザー、そろそろ新しいのに替えないと駄目だな」

誉田さんは烏龍茶を飲みながら言った。昼休みは大体誉田さんが一人で喋り、僕と工藤さんがそれに相槌を打つという形で進行する。工藤さんの声を僕は聞いた事が無い。いつも首にスカーフを巻いているので、喉に何かしらの障害があるのだろう。色が白く細身で、ぱっちりとした目をしているので、スカーフを巻いたその姿は女の人のような印象を受ける。一度うなじの辺りを見たら刺青が覗いていたことがあって、いろいろと事情のある人なんだなと思った。

「みんなメシ食ったか?そろそろ作業再開するぞ」

僕たちは工場の隅に並べられたソファーから立ち上がり、仕事場に向かった。

 潮のにおいが消毒液のにおいと混じって鼻腔を流れていく。三階の屋上には自殺防止のためか、柵の上に鉄条網が張られていて、角度にして三十度ほどこちら側に折れ曲がっている。ここは主に患者たちの喫煙所となっていて、自由時間の今は七、八人がそれぞれグループを形成して会話をしている。僕はそこから離れた屋上の角にしゃがんで下の中庭を眺めていた。右から三番目のクスの木の陰にはいつも、白いカーディガンを羽織った若い女が立っていて、じっとその場から動かないのだ。結局いつも僕が根負けして立ち去るのだけれど、何をするでもなくただぼんやりと佇むその姿が印象的で、気になっていた。今日も僕は女を見るのが疲れて屋上を後にした。

 精神病院への入院は裁判で無罪が決まった時に命じられた。ちょうど長かった冬が終わりに近づき、春めいてきた陽気の続いていた頃で、僕はお父さんの車に乗りながら、路肩の雪が溶け始めているのを嬉しく思ったのを覚えている。

 僕は人間を殺したこともあって、偽名で個室を取る措置を施された。狭い町だし何があるか分からないからと看護婦さんが言っていた。窓は南向きで日当たりがよく、その時も白っぽい光が差し込んでいた。

 朝の診断と昼食後のレクリエーションを除けば、そのほとんどが自由時間で、僕は暇を持て余していた。なので、気づかれないように院内のいろんな所を見て回った。処置室で拘束ベルトをつけられる人間や、ラジオを神様だと思ってお供えと念仏をかかさない人間がいる一方、自分が飲んでいる薬の話を交わす人間など、結構仲間意識があるような印象を受けた。

 そんな中で白いカーディガンの女は孤独を背負っているように思えた。彼女は他のどの患者にもない何かを持っている。多分それが彼女を孤独にしてるんだと思った。

 ある日の午後、僕は屋上に上がって紙とボールペンを取り出した。いろいろと考えて短いメモを書き、フェンスの隙間からクスの木に立っている彼女目がけてそれらを放った。すると彼女は上を見上げもせず、僕が落としたボールペンを自分の太腿に突き刺した。奇声を上げ、何度も何度も。医者や看護婦が次々に中庭に駆け寄ってくる。僕はその様子をぼんやりと眺めていた。メモにはこう書いた。

「いつも何を見てるんですか?」

妻との出会いだった。

 テレビでは茶雌タレントがスイーツ特集と題してケーキやらパフェやらを頬張っては、美味しいという表現を遠回しに述べていた。その中にイチゴムースという食べ物があり、それはやや赤いピンク色をした柔らかそうな固まりで、茶雌タレントがスプーンですくって口に入れると、顔をぎゅっと縮めて

「口の中でとろける~」

と言った。妻の死を連想させたので、僕はゆっくりとテレビを消し、工場の掃除に向かった。

 陽はだいぶ傾き、辺りには薄い暗闇が迫ってきていた。誉田さんと工藤さんはもうとっくに作業を終えていて、ソファーに座って将棋を差していた。僕は二人にお辞儀をすると、工場に入り、ちりとりとほうきを持って旋盤の近くに散乱した鉄屑を掃き集めた。ガリッ、ガリッと鉄屑が床を引っ掻く音がする。そうだ、あの時も何度か糸ノコギリの刃が折れて床に転がり、それを踏みつけた時にこんな音が鳴っていた。

 「脳味噌を洗いたいの。でも一人じゃ出来なくて」

朝、頭から血を流した坊主頭の妻が僕の枕元に立っていた。ポトリポトリと妻の血が顔に落ち、

「分かった。手伝うよ」

と言うまで妻はその場を動かなかった。

「脳味噌はきれいに残してね」

と言ったので、僕はなるべく慎重に妻の頭蓋骨を切り取ることにした。糸ノコギリを引く音がグチャグチャからゴリゴリに変わり、いよいよ緊張してきた僕は

「今、頭蓋骨」

と言った。妻はもう意識が無かったので、何の反応も示さなかった。少しずつ少しずつ作業を進め、何本も糸ノコギリの刃を折りながら、やがて妻の頭蓋骨がパカリと開いた。中からぬるぬるとした粘液に覆われて赤いピンク色をした脳味噌が現れた。僕はホースを持ってその粘液を洗い流していった。するとやはり少し傷ついた脳味噌の一部が流れ落ちてしまい、こういう時どうすればいいのか分からず、以前妻が蘇った病院に電話をして救急車を呼んだ。十数分後、救急車と共にパトカーも来て、僕は殺人の現行犯で逮捕された。

五月で、曇りの日だった。


続きは、本編③へ。

https://note.mu/carnofsilver/n/n1c29679214b1

あとがきは、こちら。(先行公開中)


https://note.mu/carnofsilver/n/n6f6196143566


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