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9歳の友達と33歳のぼく

先日33歳になった。

32から33って数字の印象の変化が大きいなーと少し前から感じていた。他人の年齢については基本的にどうでもいいと思っているけど、自分の年齢のたった1つの数字の変化なのになんとなく聞こえ方が他の年齢より大きいなと感じた。そういう年齢というものが自分の中にこれまでもいくつかあった。

最初は4歳から5歳、16歳から17歳、次に24歳から25歳、直近だと28歳から29歳。

奇数に区切りの良さを感じるという性格もあるだろうし、ただの数字の印象の違いなんだけど「そっかーもう33歳なんだな」という他人事のような居心地の悪さが自分の中にあると気づいたのは33歳になる3ヶ月前の11月だった。

その頃、9歳の友達ができた。

その日は愛媛でずっとお世話になっている方と食事をする予定だった。
前日に「子どもの習い事の迎えに行って、そのまま行くね」と聞いていたぼくは一層ワクワクしていた。関わる人の年齢層が広いのは学生時代からずっとだが9歳の友だちはこれまでもいなかった。

彼はすごく聡明な人だった。なにより話がわかりやすい。ちょっとチャットコミュニケーションのセミナーとかやってくれません?と聞きたくなったが、それは困るよねと思って言うのをやめた。

プログラミングや、スポーツ、見ているYou Tubeの話など彼の話はおもしろかった。彼がマイクラで作ったお城はびっくりするほど大きくて、3Dプリンターを使ってスマホスタンドを作った話なんてもっと教えてほしいと質問攻めにしてしまった。

別れ際に彼とハイタッチをして別れた。

その夜、お母さんからLINEが来て

「パパに優しい友達ができたって自慢してたよ」

と連絡が来た。

33歳になったので!みたいな新しい心構えみたいなものは何もない。

連綿と毎日は続くし、いいことも悪いことも起こる。
変わっても、変わらなくてもどっちでもいい。構えていてもなかなか変わらないし、変わるときは気づいたら変わっているのだから。自分でどうにかできることなんて殆どない。できるとしたらそこそこ元気でいることぐらいだろうか。9歳の友達ができることをぼくは予想できなかったし、ここ数年の自分の状況なんてぼくは一切予想していなかった。
9歳の友達に出逢う日もあれば、ろくでもない人に出逢う日もある。
美味しいご飯を作れる日もあれば、ちょっとミスったなという味付けの日もある。

そんなものなのだ。

波やリズムの傾向は知れても、理解することはできない。
そもそもぼくは何も知らないし、すべてを知るには人間がもっている時間では少なすぎる。

だからそういうときにはこの言葉を思い出すようにしている

「生きてるだけでまるもうけ」


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