ポルトガル旅 学問・奇跡・大航海の街#7 Lisboa
2023/06/05
機上の元旅人
11:30
旅の最後の日となった。起床後、お土産を買いに出かけ、カバンを整理して宿を出る。
12:00
メトロで空港に到着。
飛行機を確認する。
14:15 EK192 Dubai
が掲示板にも見える。定刻通りの予定だ。
流れ作業のように、搭乗が始まり、感慨を抱く間もなく機上の元旅人となった。
そもそも今回のポルトガル訪問はサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅のためであった。その様子はマガジンにまとめた。そして旅の予備日はコインブラ、ファティマ、ラーゴスの巡回に当てた。
この記事はポルトガル旅リスボン編なので、ここで時計の針を戻して5/15日からの2日の出来事をここに付け加えたい。
ピラミッドが思い出させた旅のもう一つの目的地
2023/5/15
EK191便はリスボンに向けドバイを発った。アラビア半島を抜けるとものの見事にカイロ上空を飛び、眼下にナイル川を認める。もしやと思い目を凝らすとピラミッドが見えた。
友人がかつてエジプトに留学していた。たしかピラミッドに登った話しをしていたと思うのだが、今となっては確かめようがない。友人はもう死んでいるからだ。命日にご実家を訪ね、ご母堂とお話をしたのが、昨年(2022)だった。曰く「行ってみたいけど諦めているところ」がポルトガルのサグレスだという。自分がサンティアゴ巡礼を企図した時にまっさきに思ったのは、サグレスも回ってみようかということであった。お母さんのために下見に行ってあげよう。そのことは#4回目の記事に書いた。
飛行ルートは大事な用事を喚起してくれた。
13:45 リスボン
入国していよいよ市中へ。
14:00
リスボンの交通カードVivaViagemの購入には行列。購入方法が良くわからないひと続出。メトロへの通路にあるポルトガル偉人イラストのFernando Pessoaとツーショットを撮影して、市内へ。
Aeroporto からRestauradoresへ。
15:00
ケーブルカーの坂道を徒歩で登り宿を目指す。
Independente Hotel&Hostel
https://independente.eu/principe-real/dorms/
受付を済ませ部屋に荷物を置く。ロビーにフィルムカメラを持ったアメリカ人の青年がいて、少し話した。自分もフィルム撮影をすることを伝えると、彼は初めて撮影するとのことで、いくつか質問してきた。現像のことを良く分かってない様子だったので、かなり心配になった。自分も写真用語が分からずうまく伝えられなかった。
物資調達と情報収集
近所のなんでもショップで水と南京錠(持ってくるのを忘れていた)を買った。
宿の眼の前がサンペドロ・デ・アルカンタラ展望台Miradouro de São Pedro de Alcântaraで、眺めが良いので、一休みしようとアイスを買って食べた。
その後、アルト地区Bairro Altoをを散歩に出かけた。
18:50
シアードのガレット通りにある書店で巡礼サンティアゴ巡礼本を探した。あまりというかほとんど数はなく、英語で書かれたこの本がかろうじて役に立ちそうであった。
19:30
Trindadeで夕食。30€。
巡礼のスタート地点について悩む。やはりポルトから行くのが無難だろうと思う。
2023/05/16
4:00
目を覚まし、オンラインでポルト行きの特急のチケットを購入する。
6:30
早朝の街を散歩した。
リスボンの日本人
大航海時代に日本と直接につながったヨーロッパはこのポルトガルだった。自分としても若い時分にブラジルと関わった縁で宗主国ポルトガルにも興味がある。深い関係がとは言うが、どれほどのことかよく知らなかったので、調べてみた。
1553年9月にベルナルドという日本人がリスボンに到着している。470年も前だ。かなり古い関係だ。鹿児島でフランシスコ・ザビエルに洗礼をうけたのが、1549年。その4年後にはリスボンに着いちゃっているのだから、ご家族も心配されただろう。子供が良く知らない変な襟巻き付けた外国人に感化されて、そのまま外国に付いていっちゃったら泣くと思う。やめてくれと思う。
一方、もしそれが自分だったら、最新のカッティングエッジなテクノロジーと霊的な高邁さ、奇抜なファッションと未知の言語など、ザビエルに痺れる若者であったかもしれないと思ったりもする。
実際彼が日本でどういう境遇であったかは知らない。のっぴきならない不幸な境遇であったかもしれないことにも留意が必要だ。しかし、一塊の薩摩隼人がやがてコインブラに行き、大学で学び、イエズス会のファウンダーCEOであるイグナティウス・ロヨラに呼び出しをくらっては、ローマに出向き、時の教皇パウルス4世にも謁見しているのは家族も友達もびっくりだろう。
それが、キリスト教未踏の野蛮の地、東方のジャポンからはるばるやってきたという演出込みであったとしても、一連のイベントの主役は彼ベルナルドであった。一人の個人にとってこの上ない出来事であったことは疑いようはない。
有名な天正遣欧少年使節がリスボンにやってくるのが、1584年で30年もあとのことだ。こちらは4人連れで行って、いざ到着後の本番は3人でやってきましたという触れ込みで練り歩いた。東方の三賢人を意識させるこの演出のおかげもあっただろう、欧州でブームとなった。
この話しは有名なので、これ以上しない。
すっかり、こういう象徴的な話しは特殊な例外だと思いこんでいた。ところが、現代の研究ではそうでも無いことが明らかにされている。
同書によれば、リスボンに滞在したフィレンツェ人が書簡で友人に知らせた内容から、「1570年代後半には、ある程度まとまった集団的な観察が可能なほどに日本人や中国人が居住していたと考えられる」とのことだった。
これらの人々はポルトガル人の通商ネットワークにのってやってきた日本人奴隷ということになる。
朝の散歩で坂道を下り、コメルシオ広場を過ぎたあたりで、その教会にも出くわした。
そうとは知らずに歩いた道は450年前、少なからぬ数の日本人が歩いていた道だった。そのうち二人はここで結婚したのだという。写真を振り返っていたら教会が僅かに写っているものを見つけた。後の大地震で再建されてるとはいえ、マヌエル様式のファサードは紛れもなく、1534年の建築当初の様子をとどめているだろう。目線を奥に向けると巨大なクルーズ船がその脇腹を見せている。この船もひょっとしたら日本に寄港したことがあるかもしれない。大航海の現代のツールと、過去に極東からやってきた日本人の大航海。この写真を撮った時、距離と時間がないまぜになって網膜に写っていたはずだ。恥ずかしながら、そのことは調べてから知った。
リスボンの街を戦国時代の日本人が見ていたというのも不思議な気持ちになる。1775年にリスボンは大地震に見舞われ、この辺りBaixaは壊滅的な被害を受けたとされるので、同じ景色を今見ているとは言えない。
それでも、栄華を誇ったリスボンの町並みをどう見ていたかを想像してみるのは楽しい。立派な教会だなぁ、坂道が急だな、石造りでひんやりしてるなぁ、魚やタコ料理が口に合うなとか思っていただろうか。案外、今と変わらない感想を持っていたかもしれない。450年後の僕も歩きながら思っている。
さて、繰り返しにはなるが、その日本人たちはおそらくは不幸な境遇でここまで連れて来られているだろうことには改めて注意を向けておきたい。
ジャカランダの祝福
7:30
アルファマの方に登り返していくとジャカランダが咲いていた。満開だ。日本のソメイヨシノ同様に、樹木が完全に花におおわれる瞬間に出くわせたのは幸運であった。
9:00
宿に戻り時間をかけて朝食をとる。
12:00
女性もの衣類店で首に掛けるストールを見つけて購入する。首周りが寒いのだ。これから巡礼路を歩くために、荷物は増やせないので、買い物は基本なし。
17:00
Rucaの店で、昼夜兼用の食事。
エビを入れているこの調理鍋が素敵で手に入らないか聞いたが、昔のもので分からないが、無理だろうと即答された。
17:00
立ち飲み屋で、さくらんぼのリキュールのジンジーニャGinjinha。
20:30
まだ明るいのをいいことに、散歩を続ける。
21:00
夜になった。それでもまだ時間が早いのか、客引きの女の子は退屈そうにしていた。ブラジルはリオ・デ・ジャネイロ出身だという。僕がブラジルの子はシンパチカ(親しみやすい)だというと「そのとおりだ」と言った。
坂の上町であるアルト区ALTOでは小規模なバーが立ち並ぶ。
21:30
ながれついて、サンタカタリーナ展望台までやってきた。テージョ川の河口を見下ろす夜景に酔いしれながらビールを飲んだ。
この記事の前半はコインブラ、ファティマ、ラーゴスをめぐった旅の最終日について(6/5)、後半はサンティアゴ旅の準備について書いた(5/14から16)。
信仰と歴史にも目を向けたこの「学問・宗教・大航海旅のまとめ」はここで締めくくることとする。
さて、いよいよ、明日(2023/05/17)はポルトに移動する。そしてそこからサンティアゴ・デ・コンポステーラまで歩くことになるがそれはまた別の話。