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寄付ってみんなしているのだろうか?私は何年もしていない。

先日部下からこんなことを言われた。

「みかんさんお金あるなら寄付したらいいじゃないですか。」

その部下はコンビニなどの募金箱に少しではあるが募金をしているそう。

なんとも立派な人なのだ。

部下に言われて考えたのだが、私は何年も寄付をしていない気がする。

いつの間にこんな薄情な人間になってしまったのか。

その理由を探ってみた。


一時期は寄付(募金)をしていた

社会人になりたての頃。

今まで目にしたことのない額の給料が入って気持ちが大きくなっていた。

その時の私はよくコンビニの募金箱にお金を入れていた。

600円の商品を買って400円のおつりが出たとして、その400円を全て募金箱に入れていた。

そんな生活をしばらく続けていたのだが、あることに気付いた。

気持ちいいのだ。

コンビニ店員さんから見た私に対して気持ちよさを感じていたのだ。

つまりこういうことだ。

当時の募金のイメージは善人がやることだった。

世の中の困っている人に対して私は気遣う心があります。気遣うだけのお金もあります。

募金という行為は私が善人であることの証明だった。

そして、お金に余裕のあることの証明だった。

(当時お金なんてほとんどなかったので滑稽な話である。)

コンビニ店員さんの前でジャラジャラと募金箱にお金を入れる行為は、そんな意味で気持ちよさがあったのだ。

そこに気付いた瞬間に私は募金をやめた。

浅はかな気持ちよさを感じる自分に対し、気持ち悪くなったのだ。

やらない善よりやる偽善という言葉がある。

結果的には私の募金は困っている人に届くのだから、動機はどうであれやった方がいいのは事実だ。

でも気持ち悪い思いまでして募金をすることが嫌になった。


世界が狭くなった

学生時代、私の世界は広かった。

世界のみんなが幸せになればいいと本気で思っていた。

世界で困っている人がいたら自分のお金と時間を使って助けたいと思っていた。

自腹で海外ボランティアに何度も行ったし、東日本大震災の時は大学を休学してまで現地でボランティア活動をしていた。(被災地に関しては給料をもらっていたので厳密にはボランティア活動ではない。)

そこから月日が流れ、現在34歳。

世界は狭くなった。

考え方が大きく変わった。

世界とか日本とか大きく考えなくなったのだ。

もちろんみんなが幸せになればいいとは思う。

でも、そんなこと無理なのだ。

やっていないので無理かどうかは分からないが、自分の時間とお金を使ってまでみんなの心配をしている余裕はない。

順番が違ったのだ。

昔の私は、「みんな」から考えていた。

今の私は、「自分」から考える。

まず自分なのだ。

自分の心が安定している。

自分 → 家族 → 友人や職場の同僚 → もう少し広がればとnoteを始めた部分もある。

私が影響を与えられる範囲なんて、たかが知れている。

たかが知れているからこそ身近な人間を大切にしたいし、いい関係を作りたい。

私と身近な人間がいい影響を与え合って、それが少しずつ周りに広がっていく。

これは時間のかかることかもしれないけど、私にできることなんてそれぐらいだし、それが心地よかったりする。

冒頭の寄付の話に戻ると、私はまだしばらく寄付はしないのだと思う。

もちろん身近な人たちが困っていたら、私にできることは何でもすると思う。

ただ、顔も知らない誰かのためにという気持ちは正直なところない。

世の中にはいろいろなニュースが飛び交う。

戦争や災害、貧困など。

かわいそうだなと思うけど、それに対して自分のお金を寄付することはない。

キリがないからだ。

身近なところでは駅や公園でよくホームレスの人を見る。

たまに白人のおそらくクリスチャンの方がお金をあげたりしている。

その行為は素晴らしいと思うけれども、私はまだまだそうはなれそうにない。

いつか私が心から寄付をしたいと思える日が来てほしいな。





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