電車でマスクしないオジサン(4)
たぶん、わたしは少しばかり神経質になり過ぎているのだろう。電車での感染はほとんどないことになっているのだが、はたして本当にそうなのだろうか、と思う。それは、ただ単に確認のしようがないからなのではないのか。
最近マスクをしない人は車内ではまず見かけなくなった。それでも、わたしが本を読んでいると、いきなり人影が落ちてきて、足元の感じから、かなり大柄な体格の良い男性であることがわかるのだが、どうやら大きなリュックを網棚に載せようとしているらしくて、ほとんどわたしの顔に触れんばかりに胴体が近づいてくるのである。服装からあまり若くないらしいことがわかる。
会社帰りの電車でのことである。遅い時間になると混むので、朝7時から勤務しているから、帰りもまだサラリーマンがいる時間ではなく、そもそも主婦と思しき女性ばかりで、男性はほとんどいなかった。そこにいきなり現れた体格のいい男性、リュックを背負って年齢も高めだときた。
嫌な予感がした。もしかしたらこの人はマスクをしていないかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。もしマスクをしていないなら、その口元は、現在わたしの頭上にあるわけだ。下手に顔を上げた瞬間、彼がくしゃみでもしたら? 荷物を網棚に載せ終わると、一歩下がって、それでも依然としてわたしの前に立っている。立ち去る気配はない。そりゃ当たり前である。荷物を置いたんだから。わたしは、意を決して、できるだけ感づかれないように顔を動かさず眼だけを恐る恐る上げて彼を見た。
えっ? 本当にマスクをしていないではないか。気のせいではなかった。鋭い眼力で、こちらを睨みつけるように見た! ヤバイ、と思ったが、さすがにそれは気のせいで、彼はすぐに視線をそらしてしまった。マスクをしていない人に温和な視線の人がいないというのは、単なるわたしの思い込みなのかもしれないが、彼も目をギョロっとさせて、なにかを我慢しているみたいにまっすぐ前を凝視している。その先は窓の外だが、風景を楽しんでいるようには全く見えない。ひたすらなにかに耐えているようだ。
車内を見渡しても、他にマスクをしていない人はいない。なんでよりによってわたしのところに来るのだろう。きっと日頃の行いがよっぽど良いからに違いない。とはいえ、別になんにも良いことなんてした覚えはないのだった。
そのまま、20分ほど経ったろうか、乗り換え駅まで来て、車内が一挙に空いた。彼は、と見ると、降りないで無表情に立ちつくしている。
「降りないのかよ」と思った、次の瞬間、荷物を網棚からとって、わたしの横(!)にどさっと腰かけた。
車内はがらがらで、数人しか乗っていないのに、なんで? 7人掛けのシートに2人だけなのに、なんで隣なの? 向かいのシートなんて誰も座ってないじゃないか。
さすがに、不気味な感じがして、一瞬間をおいて席を立ち、まだ閉まっていなかったドアから駅のホームに逃げ出した。怖くて後ろを振り向けなかった。
ああ、なさけない。というか、これはもうぜったい過敏症みたいなものだろう。コロナ過敏症である。そういえば、最近、会社であったストレスチェックの結果が返ってきたことを思いだした。自分ではそんなつもりはまったくなかったのに、ストレスが増えていてちょっとヤバイと書いてあった。去年の結果も一緒に印刷されていて、確かに悪化している。でもまだ病院に行くほどではないです、とも書いてあるのだった。
そういうのが一番不安を煽るって、わからないんだろうか、心理学の専門家のくせに、と思いながら、それを読んだわたしはひたすら不安になったが、通院の必要はないといわれたのだから、本来ならここは喜ぶべきシチュエーションのはずである。やはりコロナストレスなのである、ということは理解したが、どの設問の回答をミスったのだろうか、と、そんなことばかり気になって仕方なかった。もちろん、考えるべきは、そこじゃなくて、普段の生活そのものなのに。
なるほど、新型コロナの哀れな犠牲者は他ならぬ、わたし自身であったのだ。ははは、いや、こんなオチ、ぜんぜん笑えないぞ!
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