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『食べて、祈って、恋をして』

(ネタバレを含みます)

何か面白いものがないか、とJCOMの番組表をスクロールしていたら、『食べて、祈って、恋をして』の映画版をムービープラスでやるのが目に留まった。最近原作を読んで面白かったのでぜひ映画も観たいと思っていたところだった。原作には作者の「10年目のまえがき」がついており、もちろん映画のことも書かれていたが、なんだかその書き方が微妙だったので気になっていたのだった。

18時30分は、いつもならNHKでニュースを観ている時間帯であるが、原作を面白く読んでいたわたしは、母に面白いからと請け合って、時間通りに観始めた。

ところが、なんだか、あまり面白くない。原作通りに作られているので、最初はつらい現実(離婚)とそこからの逃避行なのだからしかたないのだが、いつまでたっても主人公の人生が盛り上がっていく雰囲気がない。

だが、まったく原作通りなのである。まったくそのまま主人公の人生そのままなのである。これは自伝だから、作者の人生そのままということになる。普通の人間の人生は映画のような盛り上がりには欠けるのがふつうである。

もちろん、ある種の盛り上がりはあるのだが、映画を観始めて、それが映画にはなりにくいタイプの盛り上がりなのだと気が付いた。いや、実際に映画を観ればわかるのだが、主人公は、様々な人との出会いを通じてどんどん成長していくのである。

それは、ほんとうに素晴らしい成長なのだけれど、見てくれが激しく変わるわけではなし、極端な生活の変化(いいほうでも悪いほうでも)に見舞われるわけでもないから、画面の中の彼女は、いつも同じ中途半端に見える立ち位置で、いくつかの場所を移動しているだけなのである。

原作はそうじゃなかった。もちろん、基本的に原作通りの映画だから、原作でも客観的な行動や見てくれに大きな違いがあるわけではないのだが、主人公の自分語りが、とにかく饒舌なのである。自らの精神の動きをダイナミックに描写するその手腕は大したものだと、映画を観始めて気が付かされた。

主人公が夫婦生活に行き詰ってしまって神に祈り始める冒頭からして、原作は、深刻ではあるがげらげら笑い転げて(失礼)しまうような展開なのに、映画はとてもそういう雰囲気ではなかったと思う。

映画はいつまでたっても盛り上がる雰囲気の欠片さえみせなかった。

しびれを切らした母が、リモコンを操作してJCOMの解説のページを見た。

そこには「ジュリア・ロバーツが自分探しの旅に出る!」と書かれてあった。

それを読んだ母は、「自分探しなんてくだらないこと」と言い捨てて寝てしまった。言うまでもなく、母は自分探しほど嫌いな言葉はないくらい、この言葉やそういう行為が嫌いである。解説ページを読まないでいてくれることを願っていたのだったが。

せめて何も言わずに寝てしまってほしかったが、言い捨てて去らずにはいられないくらい退屈な映画だったのだろう。

実際、最後まで観ても、映画はやはり原作ほどいいとは思えなかった。それぞれの土地で具体的にしたことから、映像にしたら退屈な部分や映像にはできない部分が、かなりはしょられてしまっていたのも原因のひとつと思われた。原作は560ページもあるので無理もなかった。

特に、最後に世界中の友人から寄附を募って、バリ島の母子に家を作るお金をあげるくだりが、原作とは異なる結末になっていたのには驚いた。主人公の成長にとってけっこう重要な意味をもつエピソードであったように記憶していたのだけれど。

最後に出てくるブラジル人の相手が、スペインの俳優ハビエル・バルデムだったのもよくなかった。彼は、『007スカイフォール』で見せた怪演の印象が強すぎて、恋愛映画に出てくると敵役にしか見えないのである。でも彼は、特に若いころは二枚目役の映画が結構多く、今回もそうなのだった。原作者のエリザベス・ギルバートはほめているが、これは社交辞令のような気がする。実際の夫には似ても似つかないとも言ってるし。もっとも、ジュリア・ロバーツも作者には似てないという。

作者の言葉を借りると、二人とも暗闇で見ても似ても似つかないそうである。映画を観終わって、作者にそういわせてしまう映画なんだと、ぼそりと思ったりもした。

それにしても、わたしがどうしても観たいと言って母と観ると、途中で気まずくなってチャンネルを変える羽目に陥ることが多いのはなぜなのであろうか。ま、言うまでもないか。



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