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母との日々

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2022年5月の記事一覧

今どきの放浪記は飲む、打つ、買う!?

今どきの放浪記は飲む、打つ、買う!?

『放浪記』を読み終わってしまった。『放浪記』はわたしが考えていた作品とは似ても似つかないものだった。有名な国民的女優が、これででんぐり返しをするというので、ますます『風琴と魚の町』の娘の物語なのだと思い込んだのだったが、実際には主人公が自分の小説の新聞広告を見て喜びのあまりでんぐり返しをするという演出であって(原作にはなかったと思う)、子供が遊んでいたわけではないのであった。

そもそも、なんで『

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『なぜ古典を読むのか』

『なぜ古典を読むのか』

もっとも、歳をとったことで、若いときに面白くないと思ったものが面白くなったのは、須賀敦子ばかりではなかった。

2012年に文庫で出たイタロ・カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』という本がある(これも偶然だが須賀敦子訳だ)。表題と同名のエッセイ「なぜ古典を読むのか」の中で、カルヴィーノは、「ある古典を壮年または老年になってからはじめて読むのは、比類ない愉しみ(より大きいとか小さいとかいうのではなく

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失われた旅行記を求めて

失われた旅行記を求めて

先週、プリーモ・レーヴィの『休戦』(岩波文庫)を読み終わったので、今は林芙美子の『放浪記』を読んでいる。

どちらも今まで一度だって買おうと思ったことがなかった作品であるが、なんとなく成り行きでそういうことになってしまったのである。つまり、「重要性の問題」がわたしを駆り立てているのである。

現実には、なにも重要な問題などありはしないし、仮にあったとしても、それでなんでプリーモ・レーヴィと林芙美子

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須賀敦子のように

須賀敦子のように

このエッセイの連載を始めるとき、お手本になりそうな本を探した。だが、参考になりそうな本をすぐには思いつけなかった。わたしは昔からエッセイが好きだったので、いろいろ読んでいるつもりだったが、思い返しているうちに、かなり偏っていることが判明した。

例えば今でも繰り返し読むエッセイといえば、モンテーニュ、森有正、アーシュラ・K・ル=グィンの三人だけである。これにエッセイなのか小説なのかわからないリチャ

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次に読む本

次に読む本

次に読む本が決まらないことがある。というか、最近それが常態化していて、読みかけの本がないときは、常にそれに怯えていると言って良い。

実家でテレワークをしているときは通勤にかかる時間がないので、読む本が決まっていなくても困ることはない。だが、実家から仕事場までは電車に乗っている時間だけでも1時間20分以上あるので、その間に読む本が決まっていないと落ち着かない気分になる。鞄に入る本には限りがあるから

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