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失われた旅行記を求めて

先週、プリーモ・レーヴィの『休戦』(岩波文庫)を読み終わったので、今は林芙美子の『放浪記』を読んでいる。

どちらも今まで一度だって買おうと思ったことがなかった作品であるが、なんとなく成り行きでそういうことになってしまったのである。つまり、「重要性の問題」がわたしを駆り立てているのである。

現実には、なにも重要な問題などありはしないし、仮にあったとしても、それでなんでプリーモ・レーヴィと林芙美子なのかがわからない。どちらも面白いから通勤電車で読むにはちょうど良く、読み終わらないうちは、次に読む本を決められずに困るということがないので、漠然と『放浪記』を読み進めているという感じである。

林芙美子は、昔国語の教科書に載っていた『風琴と魚の町』と、岩波文庫で出た『林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里』しか読んだことがなかった。『放浪記』はタイトルから、なんとはなしに『風琴と魚の町』が長くなったものだろうと思い込んでいたのだが、岩波文庫の表紙に「舞台は第一次大戦後の東京」と書かれていて、タイトルの意味を完全に誤解していたことに気が付いた。それで興味を惹かれて、新潮文庫版(安かった)を購入したのだった。

普通の小説だとばかり思っていたが、小説ではなくて日記あるいは手記と呼んだほうが良いもので、新潮文庫の裏表紙には自叙伝と書かれてあった。

プロローグに「放浪記以前」として幼いころのことが少し書かれているだけで、あとは(12月×日)といった日付をぼかした日記風の文章が延々続くだけで、前後関係の説明はなく、登場する人物の説明もほとんどない。東京へは男を追いかけてきたが1年で捨てられてしまった、と表紙裏の著者説明に書いてあった。

そんな説明も本文にはほとんど出てこないし、そもそも5年間の記録を(5月×日)(6月×日)とだけ書いているので、前後関係も判然としない部分が多い。ただ、読み進めていくと、勤め先を転々としており、時々は母の元へ帰ったりもしているので、放浪しているのは間違いなかった。

ほとんど書かれていないのでわかりにくいが、主人公は勤めを転々としているものの、どうやら童話などを執筆しており、つまるところ売れない三文文士ではあるので、なんだかそれが分かって以降は、ただ捨てられた女が都会で落ちていく(または上りつめていく)だけの物語にはみえなくなって、依然としてすこぶる面白いとは思いつつ、いささか興醒めな感じがした。もっとも、作家であればこそ詳細な日録をつけもしたのだろう。

『休戦』のほうは、といえば、これがアウシュヴィッツから故郷のイタリアへ帰る話であることは何となく知っていた。最近、旅行記にばかり目が行くようになり、その過程で、『休戦』を手に取ってみると、それがポーランドからイタリアへ帰るとき、ウクライナとベラルーシに長い寄り道を余儀なくされた話であることを知って興味を惹かれたのだった。

岩波文庫の表紙には約9カ月の旅の記録と書いてあったし、ページをめくると、見開きの地図に旅の順路が示されてあったので、旅の記録を期待して買ったのだったが、旅を記録したものというよりは、帰還の途中で何度か長い足止めを食ったときの記録というほうが正確だった。もとより、これはアウシュヴィッツから生還した作者の魂の放浪記というべきものなのだろう。そういう意味では林芙美子もそうなのだった。

たしかに、旅行記にもとめるものを考えれば、そこには明らかに二つの異なる要望が存在している。ひとつは、未知の土地に関する情報であり、もう一つは、そこを訪れた者(作者)に関する情報である。『放浪記』も『休戦』も明らかに後者に重点が置かれた作品であるのは間違いなかった。

もしかしたら、こういう作品は旅行記(紀行文)とは呼ばないのかもしれないと思ったが、わたしが好きな旅行記は、こちらのタイプであるようだ。考えてみると、あの名作『深夜特急』も、そうだったし、須賀敦子もまた。


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