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語られる”物語の展開”は誰のものか~語られる自己⑤

先に自己概念を表現する(自分らしさを語る)ときの、その”記述”は、その人のオリジナルではなく、その社会で一般的な表現の中から採用されたものなのでは?-というところから、そうした表現はその所属する社会がどのような状況であったかということに依拠することになるので、自分らしさとはいいながら、その集団の反映となっていませんかね、ということを説明してみました。

記述に用いる”表現”だけでなく、その物語のモチーフや展開もその集団の影響を受けているのではないでしょうか?
物語の展開として有名なのは、キャンベルらが「千の顔を持つ英雄」などでまとめた神話の構造。①主人公はある日、別の非日常世界への旅に出て、②その地でイニシエーションを経て、③元の世界に帰還する-という共通の構造があるとするもので、次のようなプロセスに分解されます。

Calling(天命)
Commitment(旅の始まり)
Threshold(境界線を超える)
Guardians(メンターとの出会い)
Demon(悪魔)
Transformation(変容)
Complete the task(課題完了)
Return home(故郷へ帰る)

スター・ウオーズやロード・オブ・ザ・リングなど数々の名作がこの流れを参考にしているといわれています。
これを意識のっとっているかいないかは分かりませんが、在来のさまざまな物語はこれにあてはまってしまうようにも思います。ウルトラマンや仮面ライダーなどのヒーローものは各回はここまで整っていなかったとしても(なにせ30分ですから)、全体としてはこの構造が適用できるように見えます。ヒロインものにしても同様で竹取物語もかぐや姫からみればそうでしょうし、セーラームーンもそうなのではないでしょうか(セーラームーンは概略しか知らないので、確証はありません)。アラジンは、アラジン側から見てもそうですが、ジャスミン側からみても同様かと。逆に、こうしたプロセスに則ってゲームや演劇のシナリオを作り上げるということを大塚英志らは提唱していたりします(「ストーリーメーカー~創作のための物語論」アスキー新書など)。

ここまで詳細に分かれていなくても、「行って/帰る」という構造は、大塚英志によると物語の基本中の基本なのですが、キャリアストリーが語られるときにはよく耳にするのではないでしょうか?
「急な異動でね、まったく経験のない業務を、しかも土地鑑もなにもないところに転勤してやれっていうことになってね。大変だったんだよ。最初は、なんで自分が、と思ってやさぐれましたよ。でもね、これも一つの与えられた機会だと思って取り組むことにしたんだ。同じ職場の人とまずは打ち解けるところから始めてね。最初は”よそ者に何が分かる”みたいなよそよそしい感じだった係長が、競合他社と競った大型案件では実は影でいろいろとバックアップしてくれていて。あれはライバル社のやり方が汚いということで共闘してくれていたんだなきっと。それをきっかけに打ち解けるようになって、昇格試験では推薦文まで書いてくれたんだよ」
みたいな話。細部はいろいろとあるのですが、骨子としては一つのパターンになっているように感じませんか? もちろん、話し手は神話の構造に当てはめて話そうとしているわけではないのですけれど、なんとなくそういう筋書き(構造)になってくるわけです。

そうしようと思っていなくても、なんとなくそんな感じになるということは、こういう話の流れというか、筋書きというか、構造というものが身に染みついていると言えるかもしれません? それは生得的にというよりは、昔話を読んだり、聞かされたりしているうちに、あるいは先のヒーローもののようにテレビや映画などで何度も目にしているうちに…(ユング風にいえば元型なのかもしれませんが)。
かなり前のことになりますが、大学生の方の就職を支援する活動をしていたころ、長らく製作されていなかったウルトラマンシリーズが再始動し、ほぼ時期を同じくして仮面ライダーシリーズも新たに制作が始まりました。私が前のシリーズを見ていたとき、なんとなくウルトラマン派と仮面ライダー派というのがあったように思います。同じヒーローものなんですけど、ちょっとだけテイストが違うと申しますか、ウルトラマンの方が勧善懲悪色が強いと思うのです。まぁ仮面ライダーの方は悪の組織によって改造されてしまった、つまり生まれながらにして陰の要素を持っていたのに対して、ウルトラマンの方はもともとが光の巨人ですからねぇ。偏見かもしれませんがウルトラマンの方は「(根っから)信じる!」みたいなのに対して、仮面ライダーの方は裏切りがあったり葛藤があったりした上で「(それでも)信じる!」みたいな違いといいましょうか(とはいえ、再スタートしたウルトラマンシリーズの3作目「ウルトラマンガイア」ではダークサイドのウルトラマンがもう一人の主人公になったりしてはいましたが…)。
そして小さい頃、ウルトラマン派だったのか仮面ライダー派かというのが大人になっても微妙に尾を引いているんじゃないか、という話になりました。いかがでしょう?(ヒロインものだとどうなるのでしょうね)

話が側線に入りすぎました。こうした何らかのストーリー展開を私たちはベースに持っていると考えると、自己を語るときのその物語の展開も、その人そのものというよりは、そうした型(モデル)に則ったものになっているかもしれません。
自分らしいとはいいながら、実は所属する集団、社会の鋳型の中の些細なバリエーションになっているだけなのかもしれません。とすれば、自分らしさを語るというとき、何を自分らしさといっていることになるのでしょう?

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