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自分が語るのか、語ったことが自分なのか~語られる自己③

さて、自己概念は語られることで明らかになる-ということを前提にした場合、もう一つ気になるのは何のために語るのか? ということ。つまり自分に対する語りは、因果論なのか目的論なのか?

因果論とは、「○○という理由で▢▢ということになった」というもの。「▢▢であるのは○○だから」とも言えます。原因があるから結果がある。なので、こうなっている結果には原因があるだろうという考え方。
とてもよくあるお話ではないでしょうか? 「今の自分があるのは・・・・という経験があったから」「あのときに・・・・に出会わなかったら今の自分はありません」というのも、因果論に立つ話。

確かにそれはそうなんでしょうけれど、本当にそうなの?  「・・・・」に出会ったからというのはそうかもしれないけれど、ほかのことに出会っても同じ結果になっているかもしれない。またそれに出会っただけでは実は十分ではなくて、あんなことやこんなこともあったから今の自分になっているかもしれません。語られる自己②で少し触れましたが、そこには取捨選択、つまり語られない出来事も多く含まれているはずです。

そう考えると、「▢▢である」ということがいかに妥当な結論なのか、それを明らかにするために語っているとも言えます。つまり、「○○」というのは、原因なのではなくて、▢▢であるということを説明(証明?)しようとするためのものなのかもしれません。つまり〇○であることというのは原因なのではなく、自分の思うことを説明するという目的を果たすためのものともいえるわけです。原因論に対していえば目的論と言えます。

いろいろと語られる自己についての表現。それは過去のいろいろな出来事やそこから形成された(と本人は思っている)考え方や価値観から導かれているのだと原因論的に考えることもできるけれど、こういう自己でありたいとおもって採用した出来事をうまく物語として組み立てられたものと目的論的に考えることもできそうです。

いまの語られていること、は、どちら?

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