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紡ぐもの紡がれるもの~語られる自己②

自己概念は語られることで明らかになります。このことは改めて記すとして、少なくとも語られなければ、他者はもちろんのこと自分でも何のことやら分からない-ということになろうかと思います。
もちろんイメージ、表象というかたち(方法)で示すこともできるでしょう。ただ、ことキャリアということになると、他者にもわかってもらうことが必要な場面が数多くありますから、言葉にして語る、言語化することは大いに意味を持ちます。

語るに当たっては、どうしてもそこに「流れ」が必要になってきます。流れは時間の経緯であったり、分かりやすい筋書きや理論展開であったりということを指します。こうしたものを一切合切無視して、言語化すると、それはもはや単なる言葉の山でしかなく、他者には通じません。もちろん他者に通じなければ意味がないといっているわけではありません。ただ、その状態では多くの場合、自分自身も分かっていないだろうと推察されます(先に説明した”イメージ”が細切れの言語で形成されているというのであれば、それは成り立つのかもしれません)。

流れをつくろうとすると、たとえば過去から現在、現在から将来への流れだとか、起承転結や序破急だとか、テーゼ/アンチテーゼ/アウフヘーベンだとか、そういったものをつくろうとするとき、その目的があることに気付きます。何かを説明するためのものなのです。ここでは、それが「自己概念」であり、「私って○○な人」であるということなのです。
「私って○○な人」であるということを説明するための流れを構成していくわけです。

流れを構成するに当たっては、何らかのエピーソドが必要になってきます。なぜ「私って○○な人」なのかを説明する材料といっても良いでしょう。肉付けとも言えます。これらは多くの場合、過去、あるいは現在の中、記憶(体験や知識...)の中から掘り起こされてくることになります。かつてこういうことに関心があったから、あの時はこんなことに熱中したからーなどなど...。これらがうまく整理され、流れを構成すると、本人はもとより、それを聞く人も「なるほど確かにあなたは○○な人だ」と得心するようになります。自己概念がある意味では確立した(?)といって良いでしょう。

しかし、ここで用いられるエピソードの類いは、その人がかつて経験した体験、蓄積した知識-そうしたものすべてを盛り込んであるわけではありません。そんなことをしたら、膨大なものになりすぎて整理がつかなくなってしまいます。そもそも流れをつくる段階で取捨選択されているのが実態です。その取捨選択は、「これはあまり関係ないかな」と意識して行っているものもあれば、なんとなくやっているのもあるでしょう。さらにはそもそも体験や知識としてあるにしても、埋没してしまって表面化していないこともあります。つまり、この段階。語られる段階で、体験や知識は、説明したい「私って○○な人」にあわせて都合よく取捨選択されている、編集されていると言えます。

自分のキャリアを考える場面で、これまでのことについて取り上げてみるなかで、出来事とそれにまつわる考え方、見え方、捉え方が変わってくることがあります(ドミナントからオルタナティブへとも言えましょうか)。それに合わせて、「私って○○な人」が「私って△△な人」に変わったりするのですが、そのとき「そういえば…」と別のエピソードが思い出され、採用されたりします。こうした新たな流れができ、語られていくことになります。

さてこのとき、前の「私って○○な人」と後の「私って△△な人」のいずれが自分なのでしょうか? 自己理解が深まった結果だから後者の方でしょうか? でも、例えば思い起こしたエピソードが「そういえば、自分はあの時、ウルトラマンになると決めたんだった」みたいな話で、それって大丈夫ですか? と思ってしまいそうな「△△な人」だった場合はどうなのでしょう?

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