公平と公正 キャリア・カウンセリング/キャリア開発のための人事講座(6)
不公平だよそんなの!
「不公平だと思いませんか?」
−なにがでしょう?(しまった、気持ちにではなくて、いきなり事柄に反応してしまった‥‥‥ (--;) )
「なにがって、同じような仕事をしているのにあいつの方が給与が高いんですよ。納得できないね。不公平だ」
−なるほど。
実は個人的にこの「不公平」という言葉が好きではありません。なぜか? 不公平というのは公平ではないということです。では、公平って何なのでしょう? よく似たのが「不平等」。では、平等って何なのでしょう。分かったようで、分からないままに話が進んでしまうのがどうも‥‥
変な話(?)としてよく出てくる小学校の話。運動会のかけっこで、みんなでそろってゴールインできるように、ゴールまで手を繋ぐようにしているだとか、もともとスタートラインに差を付けているだとか・・・。これって公平? (それにしてもこの話よく聞くんですけど、本当にあった話なんでしょうか? 裏をとっていないので自信がないのですけれど、よく引き合いに出される話なので・・・。この学校って実在するんですか? ご存じの方は是非教えてください)。ということで、今回のテーマは「公平ってなに?」
★「何」の公平?
実は私はかけっこは大の苦手でした。だから運動会なんかこの世の中から無くなってしまえばよいと、毎年思っていました。4年生の頃だったでしょうか? なにを考えたのか通っていた小学校では春の運動会と秋の運動会をやるという馬鹿なことをしてくれました。さすがに春の運動会は内輪で、家族は呼ばないんですけど、やだなぁと思いました。話がそれましたね。だからといって、みんなでゴールインしたいとは思わないです。なぜか、それは走る速さが違うというだけのことだからです。近所の同級生おさむ君は野球が得意で、走るのはとても速かったです(今頃どうしているんだろう)。でもこれはおさむ君の個性です。私が遅いのもこれは個性です(開き直り?)。違っていていいんです。ところが、その違いをあえて隠して見えないようにしようとしているのが、「一緒にゴール」の発想です。それは、その違いを明確にしたくない、しない方がよいと考えているということです。
なぜそう考えるのでしょうか? 公平というのは辞書を見ると「平等でいっぽうにかたよらないさま」(旺文社国語辞典)を言います。「一緒にゴール」を考えた方は、走る速さには関係なく一緒にゴールすることが平等、公平と考えたのでしょう。つまり、結果が同じであることを平等、公平と考えたのではないでしょうか?
★なぜ同等にしたがるのか?
ところで、人間はすべてのものが同等・同質であることはあり得ませんね。それだと人間は工業製品になってしまいます。最近流行の「個性尊重の教育」を真っ向から否定することになりますね。かけっこの順位は個性、そこまで言わなくても個体のばらつきの範囲と考えれば、それをあえて見えなくする必要はないはずです。なのに同等にしたいと考えるのは、あえていえば、それは「かけっこの早さの違い=個性」ではなく、「かけっこの早さの違い=その人の価値」とその人たちが考えているからに他なりません。違いがあっていい、個性の範疇だ−とは考えられない。それどころか、人間の善し悪しを判断する基準になると思ったからこれを隠し、「同等性」「同質性」にこだわったのではないでしょうか?
つまり、「一緒にゴール」を考えた人たちは、かけっこの早さの違いを隠そうとしたことで、却って自分たちがかけっこの早さで人を判断している、早く走れると言うことは「善い」ことだと考えていることを露呈しているのです。
★結果の公平は個人尊重か?
ここまでで、「一緒にゴール」が不自然な理由として、「結果についての公平」を求めている点と、公平にしようとする意図の裏には、見えないように隠そうとしているまさにそのものを判断基準としているという点を指摘しました。さらにここで、結果が同じであることへのこだわりの不健全さをもう一つ指摘したいと思います。実は結果が同じであることを公平だというのなら、これってとてもしんどいことだということです。
なぜか?
途中のプロセスは何も見てくれないと言うことだからです。そうでしょ?
結果が同じということを保証しようとするということは、途中にどんな山があろうが坂があろうが、結果さえ同じならOKということです。近道しようと、人の足を引っ張ろうと‥‥。あるいは、友達が転んでいるのを助けようと‥‥。結果が同じであることが重要なのです。それが「結果の公平」です。結果よければそれで良しという「結果主義」と同じ発想です。(成果主義と同じということではありません。成果主義と結果主義は異なります。どうもここの混同が多くて困ってしまう。でもこれはまた別の回に‥‥) 「結果の公平」は、結局はそこに至る過程は見ないという意味で、結果主義と同じことなのです。いや、過程も見ない上に、結果も同じとして取り扱うという意味では、結果主義以上に個人をないがしろにしているといえます。
★結果の公平よりも透明性
冒頭に「公平」という言葉が好きではないといったのは、何を公平といっているのか分からないままに話が進んでいることが多いからです。公平という言葉を持ち出されると、それについて論議することがあたかも「正義」(?)を弾圧しようとしているかのような反応になることが多いのです。公平であることは無条件に守られるべきだ、そんな感じになってしまうんですよね。
同等であるべきなのは結果ではなくて前提条件やルールです。それをよく言い表しているのは「公平」ではなく「公正」つまりフェアであることです。かけっこにしても、それから人事制度にしても「公平」であることよりも「公正」であることに留意しなければなりません。
公正とはルールの透明性です。スタートラインに立つ条件が明らかなこと、また条件に合えば誰でも参加できること、走るコースは誰にも同じ程度に予め示されていることなどなど。透明性というのは全てが明らかでなければならないというわけではありません。今の時点では分からないということはあります。ただ、その時に「今の時点では分からない」ということが明らかにされていることが大切なのです。
★人事評価はその人の全人格の評価ではない
じゃぁ、かけっこが遅い人は不利なままなのか。能力がない場合は一生我慢するしかないのか。あんたのいっているのは強者の論理だ。そんな声も聞こえてきそうです。でもね、かけっこだけで人の善し悪しを決めるからそんな気になるんではないでしょうか?
先の小学校の先生と同じで、そういう人自身がかけっことか人事考課で人そのものの善し悪しを決めようとしているのではないですか? いいじゃないですか、かけっこ以外の競技だってあります。運動会以外にも催しはあります。どれをとっても今ひとつだったって、それだっていいはないですか。
★今回のまとめ
公平というとなんだかとっても良いことのようなのですが、何でもかんでも公平というのはかえって個人をないがしろにしてしまうことになります。特に人事で必要なのは透明性、公正さ、フェアネスです。