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私って○○な人だから~語られる自己①

キャリアを考える時、多くの場合「自己分析」をします。
自分は何者なのか?
その上で、
自分はどうありたいのか?
そのためには何をすべきなのか?
と、考えを進めていきます。
基本には自己分析。「自分は何者なのか」があります。

この「自分は何者なのか?」という問いに対して、何らかの答えが得られて初めて、どうありたいのかが分かり、その結果、そこに到達するために何をすべきか、何に取り組むべきかが分かるようになります。

「自分は何者なのか」とはつまり、自己概念を問うていることになります。どんな価値観を持っているのか、何が好きで何が嫌いなのか、どんなときに嬉しくてどんなときにやってらんねぇと思うのか。そうしたものの総体として「自己」があるということになります。これを明らかにするために、これまでの経験をたどってみたり、アセスメントをしてみたり、あるいはカウンセラーに相談してみたりしているといえるのではないでしょうか?

かなり前の話ですが、あるお店の中で女子高校生と思われる集団がわいわい話をしていて、その中で「私ってさぁ、○○な人じゃん。だからさぁ、こういうことはやってられないと思うわけ」「あぁ、分かる分かる」「だよね~」みたいな会話が聞こえてきました(細部はもちろん異なります。なんとなく雰囲気を察して下さい)。これを聞いて、あぁ、この話の流れはキャリアカウンセリングに近いのではないか、と思ったのです。

その一方で、ちょっとした違和感もありました。
この「○○な人」というのはその人にとっての自己概念であると言えます。が、その「○○な人」であることというのは「こういうことはやってられない」ということを説明するためのものであるようにも聞こえたのです。多分、「こういうことはやっていられない」ということを説明するために「○○な人」を使いますが、別のこと、例えば好きなグループ推しメンについて語るときは「△△な人」が用いられるでしょうし、毎日遅くまでSNSに見入ってしまうことには「▢▢な人」であることが語られるのではないかと思うのです。極論すれば、何か説明ものの数だけ「○○な人」があるのではないかとも思えたわけです。

もう一つは時制に関することです。というのはここでの「○○な人」は過去から現在を説明するために用いられているように思うのです。キャリアカウンセリングも、その過程において、過去から現在は語られますが、その出口は現在から将来、つまり「だから~したい(していきたい。しようと思う)」になっていると思うのです(この辺りは多分に議論のあるところかとは思います。「キャリア開発/キャリア・カウンセリング」(生産性出版)の第五章も参考になろうかと思います)。

何を言いたいのかを整理すると、「自己概念」というものは、総体としては一つであるように見えて実は幾つもの雲母のようなものが重なったものとして捉えられるのではないかということ。そしてそれは何かの目的によって使い分けられているのではないか、と思うわけです(まぁ、こうした話は特に珍しいものではないですけど)。

ただ、そう考えるとき、いくつかの疑問も湧いてきます。
幾つもの雲母が重なったものとしたとき、その総体を「自己」と呼ぶのか? それとも一片一片が「自己」なのか? 
その総体を本人はそもそも捉えられるのか? 捉えきれなかった場合、その捉えきれないものを「自己」と呼べるのか?
目的によって使い分けるその主体者はだれか(なにか)? それこそが「自己」なのではないか?
キャリア開発の根源として「私は何者なのか?」という問いに自分なりの答えを見出すことをスタートとするならば、この辺りに答えを見出しておく必要はあろうかと思います。

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