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短編小説:せっけん

その日、夜遅くうちに帰ると、うちはがらんどうになっていた。

そっか。
今日、だったっけ。

今日、彼が出て行った。

自分のものはみんな持って行ったらしく、うちには私の私物だけが残されていた。

ふーん。

ため息とも納得ともつかぬ声を出して、私はうちへ入った。

うちはずいぶん広く見えた。
こんなに広いうちだったんだ。

妙にすっきりとしたダイニングにカバンを置き、私は洗面台に向かった。

そこにはせっけんだけが残されていた。
それは彼の使っていたせっけんだった。
彼は、私が何度ハンドソープにしなよと勧めてもかたくなにせっけんを使っていた。

歯ブラシも髭剃りもヘアワックスもない洗面台に、ぽつりとせっけんだけが置いてあった。

なんで、これだけ置いていくかな。

私はそのせっけんをつまびいた。
持っていくか、捨てるかしてくれればいいのに。

その頃の私はとても忙しく、ほぼ毎日終電だった。
土曜日も出勤、そして日曜日は資格取得のための学校。
ほぼうちにいない。
彼から言われた。
ぼくと仕事、どっちが大事なの。

私はフリーズした。
そんなセリフは女が言うもんだと思っていた。
うちのことは全て私がやっていた。
朝は5時起き。食事、洗濯、彼がやるのはゴミ出しくらいだった。
その挙句のあのセリフ。
答えられなかった。

そうして彼は出て行った。
正直、ホッとした。
もう、気を遣わなくていいんだ、そう感じた。

彼が出ていくずっと前からとっくに終わっていた。

それでも私は、彼が置いていったせっけんが干からびてひび割れるまでそのままにしておいた。

恋の終わりの、せめてもの供養だった。


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