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自宅で母を送りました

6月17日、母が逝きました。
3年半前に父を送ったばかりで,、その時は葬儀にも参列していたのに、その後母は度重なる転倒&骨折で、あっけないくらい。
それでも母が逝ってからの1週間は母のためにたっぷり時間を使い、子どもである私たち3姉妹には、ほぼ悔いがありません。

前々から自宅で送ろうと決めていた

寿命が延び、故人の兄弟姉妹が高齢化するなかで、葬儀はどんどん小規模化していく世の中で、家族葬向きの葬儀会館(斎場)があちこちに増えています。
けれども、これからはきっと自宅で送る葬儀が増えていくに違いないと、私は確信していました。

うちの両親は、20年あまり前に夫婦二人で自由きままに好きなように老後を暮らすためにと家を建て替え、老後の暮らしを楽しんでいました。
それでも、父はコロナ前の88歳の時に自宅での暮らしが難しくなり、施設に住み替え、母はコロナ禍で一人暮らしが不安になり86歳のときに施設に住み替えています。立て替えた家で両親が暮らしたのは約20年。
その自宅の半分は、母の趣味であるお茶のためのスペース。母は細々とお茶を教えていたので、自宅には茶室がありました。

今では両親の兄弟姉妹も年を取り、葬儀への参列は難しいでしょう。送るのは私たちとその家族くらい。身内の集まりなら人数は知れています。
自宅、すなわち私にとっての実家には茶室がある。母が慈しんだものがいっぱいある。わざわざ葬儀場を借りなくても、自宅なら気を遣うこともなく、気楽にゆったり送れる。
~そんな思いがあり、父を送った時から、母の時は自宅にしようと、私は決めていました。
それに、父の時にお世話になった葬儀プロデュースチームなら、私の望みをきっと叶えてくれるだろう、という確信もありました。
だから、母の生前から、私は妹たちに、「自宅でと思うけどいいかな?」と何度か話をしており、妹たちの了解も得ていました。

母を看取ったとき

母を看取った場所はお世話になっていた施設で、そのとき妹と姪(妹の子ども・母にとっては孫・中学2年生)がついていました。
容態が悪くなってから亡くなるまでの間、施設長やケアマネ、看護師さん、介護士さんと相談しながら、私たち姉妹は交代で毎日母の様子を見に行っており、ちょうどその日は妹と姪が行っていたのです。
その連絡を受けた私は、すぐには行かれない遠方にいました。
すぐに葬儀チームに、メッセンジャーで母の死を連絡し、その日の夜に改めて妹たちも同席したオンライン打合せを行うことまでを決めました。

母が亡くなったことを知らされたもう一人の妹も施設に駆け付け、別の姪(妹の子ども・母にとっては孫・高校3年生)も、学校帰りに母のいる施設に駆け付けました。
施設の方で清拭してくれた後、妹が母にお気に入りの着物を着せ、姪たちが母の顔にメイクを施したようです。
そこに、葬儀チームが持参したドライアイスが到着。母へのお手当が施されました。

夜になってZoomでの打合せでは、自宅でやりたいことを前提に、大まかなスケジュールのめどをたて、施設から自宅までの移動などを相談し、続きは翌日、私が東京に戻ってからに持ち越しとなりました。
今回助かったのは、葬儀チームが父の時にもお世話になっていたこと。父の時はコロナ禍の非常事態宣言中で、その時にできるオリジナルな手作り葬儀を行ったのですが、手作りしたおかげで妹たちともしっかり面識があり、うちの家族のこともよくご存じなので、私が遠方ですぐに行けない状況の中でも、話が早いのも助かりました。

施設から自宅へ

母がいた施設では、母が亡くなってからの3日間、お部屋に安置させてくれたので、私たち家族も毎日母に会いに行けました(ドライアイスの補充も行います)。
母が亡くなった翌日には、母の枕元に施設の社長から盛花がお供えされ、施設を出発するまでの間、毎日職員さんが朝昼晩の陰膳をお供えしてくれました。ありがたいことです。

施設を出発する日、その日出勤している全職員さんが、母とのお別れに一人ずつお部屋にやってきました。介護士さんだけでなく、厨房の食事づくりの方なども。その後、棺に移した母をストレッチャーに載せて運んでいくと、入口前のロビーに、居住者や職員さんが揃っており、社長から簡単なご挨拶、そして家族からも一言ご挨拶、という流れの簡単なお別れの会があって、そこから皆さんに見送ってもらいました。

温かい施設でしょう?! こういう施設は珍しいようです。
母も晩年ここで過ごせたことを喜んでいました。数々の施設にお迎えに行く葬儀チームの皆さんですが、「こんなところは、滅多にない」と驚いていました。施設にはとても感謝しています。

施設から自宅までの約40分、搬送車には喪主である私が同乗です。
自宅にはまっすぐ帰らずに、母が自宅で暮らしていた頃に通っていた和菓子屋さん、薬局、美容院、病院、郵便局、コミュニティセンターなどに立ち寄り、ゆっくり通過してから自宅に帰りました。

自宅にて母を想う

火葬場の空きや友引などの都合で、葬儀は亡くなった日から数えて6日後。火葬はその翌日となりました。
3日間は施設にいたので、4日間は自宅にいるので、この間、私と妹が実家に泊まることにしました。

母は若い頃から着物が好きで、日常でも着物をよく着ていました。
子育てが終わるとお茶に親しむようになり、たぶん父もそういう母が好きだったのでしょう、古道具巡りは両親の趣味でもあり、自宅には両親が集めたものと、祖母(父の母)から受け継いだものでいっぱいでした。
自宅に帰った母の周りにはお茶の道具を並べたい、棺は母の着物で飾りたい、と思ってはいましたが、私には全くお茶にも着物にも心得はなく、正直お手上げ。1人で着物を着ることも畳むこともできないくらいですから。
結局、自宅の母の部屋を飾るのも、着物を選ぶのも。妹たちでした。
着物を選ぶときの、「この季節だから…」、「お芝居を見に行くならこっちだけどね…」という妹たちの会話には、私はまったく蚊帳の外でした(苦笑)。

母の周りに抹茶茶碗を並べて、棺には母の好きな着物にスワトウの帯

葬儀の時は改めて飾りつけを行う予定でしたが、自宅の茶室ではまず棺を置き、その周りに母の集めたお茶碗を並べて…。
妹に「お姉ちゃんが触ると危ないから、見ているだけでいい」などと言われながらも(苦笑)、あんなことあったね、こんなことあったよね…などと話しながら、ゆっくり過ごす時間です。
若い頃、私たち姉妹は母には大いに反発していて不満だらけでしたが、最後の最期にこんな風にしてもらえるんだから、母の子育ては大成功じゃん(苦笑)!

葬儀までの間に、母とお付き合いのあるご近所の方が、弔問に来てくださいました(葬儀まで車の出入りが激しくなることが予想されたので、事前に駐車のお断りをする必要があったため、お知らせしたからです)。
私たちの知らない母のこと、両親のことをたくさん聞く機会になり、嬉しい時間になったのは想定外でした。
こちらとしては、葬儀の準備が整ってから来ていただく方がいいと思っていたのですが、日幅があれば日程のご無理なく来ていただけるし、日常の母をご存知な方々には日常そのままで逆に良かったのかもしれません。
こういうことは、自宅葬だからこそ、できるいいことだと思いました。

お葬式

茶室を祭壇の設えへと整えている最中には、納棺式です。
東京のお葬式の場合、納棺式を行うお葬式は必ずしも一般的ではないかもしれません。納棺式は通常家族だけで行うもので、他の人のお葬式でもそうそう目にする機会はないかと思います。
私は父の葬儀の時まで経験したことはありませんでした。が、故人を遺族が囲み、遺族みんなで故人の旅立ちを手伝う納棺式はいいものだと感じています。
母を布団の上に寝かせ、ゆっくりと着物を整え、顔や髪を整え、手を触れて、口には少しだけ好きな飲み物で湿らせ…。家族全員(我が家の場合は11名)で一連のことを行ってから、棺に納めます。

祭壇の設えは、葬儀チームがやってくれるのですが、そこには母が大事に育てていた庭の植木や草花、大事に保管されていた敷物やお茶道具なども使ってもらい、近くには父の遺影も置いて、我が家の母らしい祭壇になりました。

正面の棺の向こうに母の遺影、手前にはご住職が座ります

我が家は浄土真宗で、両親が生前に法名(浄土真宗では戒名と言わず法名と言う)をもらっていました。しかし、父の葬儀の際に法名を授けてくれたお寺が葬儀をできなくなり、そのときに私の知人のご住職にお願いしたのを機に、以来そのご住職に、法要も今回の母の葬儀もお願いしています。

いよいよ告別式。
最初にご住職のお経。その後、ご住職に合わせてみんなでお経の一部の重誓偈(じゅうせいげ)。ふだん仏教と縁のない私にとっては、こんなときくらいしかお経にふれることもありません。お願いしているご住職は、父の葬儀の時も法要の時も、プリントした「重誓偈」を全員に配ってくれて、家族みんなで声を合わせて重誓偈を読むのですが、今回もみんなで声を合わせます。そしてお焼香。
つづいて弔電奉読。中学2年生の姪(母にとっては孫)が読み上げました。
通常なら司会が進行するところですが、今回はご住職から促されての流れです。

その後、リレーメッセージ。本来なら喪主(私)の挨拶、というところですが、父の時に私は話したし、家族で送るのならみんなが一言ずつ母に言葉を送ろうという話になり、妹から事前に、色、動物、言葉、なんでもいいから「母を一言で言うと…」と言うお題が出されていたのでした。いざ始まると、中学生から60代までそれぞれが母の思い出を語ることになり、私が知らない話もたくさん飛び出しました。
最後にみんなで棺にお花入れです。

お葬式を終えて

出棺は、葬儀の翌日にしました。そのため、お花入れの後から出棺までの間も、母を送るための時間になりました。
ちなみに今回使ったお棺は、Co2排出量を大幅に抑止するために、トライウォール(強化ダンボール)で作られたもの。強化ダンボールは震災の避難所のベッドなどで有名になった素材なので、ご存じの人もいるかもしれません。そのなかでも我が家が選んだのは、布も貼られていない至ってシンプルなものでした。
このお棺を扱う会社では、お棺一つ使うごとに、1本植林するというプロジェクトを行っていることもあり、このシリーズのお棺を支持する人は、「最期にできる社会貢献だ」と言います。
私は10年以上前にこのお棺を知りました。このお棺を使ったワークショップにも参加したことがあり、当時から、みんなで寄せ書きしたり、飾りつけしたりすることが故人を想う時間になると感じていたので、父のときも使いました。

実際、折り紙を折ったり、手紙を書いたりして、それをお棺に貼ったり、入れたり…。お棺に直接絵を書いたり言葉を書いたり…。みんなで母を想う時間になりました。

翌日の出棺のときには、ご近所で母と親交のあった人が家の前に来てくれて、着物と寄せ書きで飾られたお棺を見て「かわいい!」の声も。

これから増えていくであろう自宅での葬儀。
終活カウンセラーでもある私が、我が家で「自宅での葬儀」を実践したことになります。ふりかえってみても、温かい送り方ができたと思います。
母が息を引き取ってから荼毘に付されるまでの約1週間。ゆっくり、ずっと母と共にいる時間でした。
自宅で行うのは、何がどのようにいいのか、どんなことが課題になるのか、それはまた別の機会に書いていこうと思います。

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