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「銀河鉄道の夜」を読んだ①初見の感想

宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』

有名すぎるくらい有名な作品ですが、ぼくは読んだことがありませんでした。

宮沢賢治の作品は小学校の授業で習った「やまなし」と、絵本で読んだ「注文の多い料理店」を知っているくらいで、
不思議な世界観だなぁという印象を持ってそれきりでした。

でも「銀河鉄道の夜は読んでおくべき」という気持ちはずっとありました。

ぼくの好きなアーティストがリミックスとして『銀河鉄道の星』という本を出したので

「なにかと縁があるのかもしれない」

と思って一応購入したのですが、「読むぞ」という気持ちとは裏腹になぜか押し入れにしまいこんでしまって見つからなくなりました。(失くしたかもしれない)

そんなこんなで興味はありつつなかなか読めなかったのですが、図書館に行く機会があったので「銀河鉄道の夜」を借りて、
ついこの間読み終えました。

『鬼滅の刃』の無限夢列車編が銀河鉄道の夜と似ているんじゃないかと思ったことが読むことが出来た最大のきっかけです。

初見は銀河鉄道の夜と鬼滅の刃、全然似てないじゃん、という感想だったのですが、2度3度読むうちになんだか似ている気がしてきました。

何がどう似ているのかは、今回は置いておきます。

今回は「銀河鉄道の夜」のみの感想を書きたいと思います。
書きずらいので「ですます」調は使いません。

目次
1,初見の全体的な感想
2,登場人物の感情について
3,ジョバンニの家と母
4,ザネリについて
5,ラッコの上着について
6,カムパネルラについて
7,さそりの火について
まとめ


1,初見の全体的な感想

まず感想云々というより、読み終えるまでにめちゃくちゃ時間がかかった。

全っ然、内容が頭に入ってこない。
銀河の説明も風景描写も登場人物の感情も想像が出来ない。
とにかく難しすぎる

と思った。

読み手に想像させることが出来ない時点で「小説として破綻しているのではないか」と思ったが

宮沢賢治ファンは多いらしいので、読む人が読めば小説としてちゃんと成立しているんだろうと思う。

だけどみんなどうやって読んでいるんだ。

ぼくの理解力が足りないのだろうか。

ただジョバンニが通う学校の先生の言い回しはとても好きだ。難しくて全く理解はできなかったけど。

ぼくがなんとか把握できた登場人物は

主人公ジョバンニ
友達のカムパネルラ
クラスメイトのザネリ
ジョバンニの母

くらいだろうか。あとの人たちは説明しろと言われてもうまく言えない。

とりあえずわからない部分はそのままスルーして読んだ。
なのでほぼスルーする形になったがなんとか読み終えた(読み終えたと言えるのか???)

2,登場人物の感情について

正直意味がわからない、突拍子もない部分が多すぎると感じた。

学校の授業でジョバンニは天の川はたくさんの星の集まりだと知っているのに手を挙げようとして咄嗟にやめるし、咄嗟にやめたのに先生はジョバンニに答えさせようとしたり、振り返ったザネリをみてジョバンニは顔が真っ赤になったりする。

汽車ではさそりの話を聞いて「みんなの幸せのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」と言うのだが、そう思った理由もよくわからなかった。
とにかく難しい。


3,ジョバンニの家と母

ここもよくわからない。

ジョバンニの家は「三つならんだ入り口」と表現されているが、そんな家あるのだろうか。
本当にそうなら大豪邸だ。

舞台が日本なのか海外なのかもよくわからない。
個人的には日本を想像して読んでいる。

ジョバンニの母はカムパネルラのことを
「あの人(カムパネルラ)はうちのお父さんとはちょうどお前たちのように小さいときからのお友達だったそうだよ」
と言っている。

カムパネルラはジョバンニのお父さんと小さいときからお友達だったということになる。

カムパネルラ何歳なんだ???

とにかく謎だ。


4,ザネリについて

ザネリとジョバンニが街燈の下ですれ違う場面が印象的だった。

ザネリは男の子なのか女の子なのかはっきりしない。
でも性別なんてたぶんどっちでもいいんだろうと思う。

この場面でふたりは“コンパス”のように繋がっていることが“街燈の影”でも示唆されていて、
ジョバンニはザネリであり、ザネリはジョバンニのようだった。

どっちがザネリなのか、どっちがジョバンニなのかもたぶんどっちでもいいんだろうと思う。

5,ラッコの上着について

ザネリはジョバンニのことを「ラッコの上着」と呼んでいる。
ジョバンニはこれを悪口だと捉えているが、なぜ悪口だと感じているのか、ぼくははじめはわからなかった。

ラッコは現代では絶滅危惧種であり、宮沢賢治の生きていた時代も保護の対象だったかどうかは不明だったので
調べてみたら賢治の生きた昭和初期でもラッコは捕ってはいけないとされていたようだ。

ジョバンニの母が「お父さんはおまえにラッコの上着を持ってくるといったねえ」と言っているので、
お父さんは捕ってはいけないものを捕ろうとしている、ということになる。

ジョバンニは学校が終わったあと、街の祭りがある日でも活版所で働くくらい生活は切羽詰まっている。
ラッコの上着は当時高級品だったらしく、ジョバンニのお父さんは金を稼ぐためにラッコを密漁しようとしている、ということだろうか。

しかしジョバンニにとっての「ほんとうの幸せ」とはラッコの上着を着ることでもなく、学校で友達と遊ぶことでもなく、ケンタウル祭に行くことでもなく、

ただお父さんには帰ってきて欲しいし、お母さんに牛乳を届けてあげたい。
ただそれだけなんじゃないだろうか。

6,カムパネルラについて

衝撃的だったのは
カムパネルラが死んでしまったことだ。

ジョバンニにとってカムパネルラは「崇高な人」だったのではないかと想像している。

ふたりが汽車に乗っていたときは“対等”だったはずなのにカムパネルラだけいなくなってしまった。

ぼくはカムパネルラのことを全然知らない。
だけどカムパネルラの死はものすごくショックだった。
読み終えたあと呆然としてしまうくらい落ち込んだし、わけもわからず涙が出た。

7,さそりの火について

ジョバンニたちと一緒に汽車に乗っている女の子はさそりのことを「いい虫だわ」と言う。
なぜならさそりは「みんなの幸せのために私のからだをお使いください」と言ったからだそうだ。
ここで語られているのはいわゆる「自己犠牲」である。

ジョバンニは
「みんなの幸せのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
と言ったあと、
「けれどほんとうのさいわいは一体何だろう」と問い、
カムパネルラは「僕わからない」と答えた。
自己犠牲に対する疑問がここで提示されているのではないだろうか。

自己犠牲に関する意見は様々あるだろうが、

個人的に自己犠牲に美学を感じない。
大切な人には生きていて欲しいし、人間は生きるために生きていると思う。

ジョバンニは「どこまでもどこまでも一緒に行こう」と言ったのにカムパネルラは汽車からいなくなってしまった。

汽車に乗車した時点で既にカムパネルラの死は決まっていたから、「一緒に」というジョバンニの願いが叶わないことは仕方ないのかもしれない。
(というかジョバンニはなぜ汽車に乗っているのかが謎だ)

そもそもカムパネルラが河に落ちて死んだことと、さそりの火の話は結び付くのだろうか。結び付くような、結び付かないような、なんだかへんな感じがする。なんとなく違和感がある。

まとめ

ぼくは自分の感情を整理するのが苦手なので、どうして悲しいと思ったのか、どうして自分が感動しているのかを自分で理解するのにものすごく時間がかってしまうみたいです。

そしてはじめの方にも書いてますがとにかく銀河鉄道の夜は難しい。
本当に難しすぎてわからない。

わからないから何度も読むしかないですね。

何度も読んだらまた感想を書きたいと思います。

note更新の活力にします‼️